あひるのひとりごと

国指定の難病であるSLE(全身性エリテマトーデス)患者だけど、精一杯生きてます。大好きな植物さんのこと、ルーマニアの伝統楽器パンフルートのこと、夢の実現への足取りや、そのほか想うこと…書いています。

大きな麦の物語 その1「水あめ作ろう♪」

 プロローグとして

 

 

 昔々、私が中学1年生頃のこと。

 環境問題に興味を持ち、小学校卒業時は「環境庁の女性長官になって地球を守る」と大それた夢を持っていた私も、政治家の汚職問題ですっかり嫌気が刺し、「じゃあ、本当にこの地球環境を守って来たものは何だろう?」と自問していた時のこと。心の中にふわぁーと浮かんできたイメージがありました。

 

 それは一面、緑の景色…。

 

 私ははっとしました。

 「地球を守って来たのは、農家だ。今は農家の後継者不足。自然に優しい有機農業者になって支えて行こう」

 

 それ以来もう進路は農業高校の農業科に入ることで一直線。無事に入って卒業したもののその後は紆余曲折を経て一度就農は挫折し、しかし何の因果か現在の主人に出会うことで農業界に舞い戻り、細々と自然農業をしながら現在に至っています。

 

 今でも、その景色が何だったのか?わからないままです。

 稲の生い茂る田んぼなのか?

 牧草生い茂る牧草地なのか?

 麦の生い茂る畑なのか?

 穂が出ていないので、そのいずれなのか全くわからないのですが、稲にしては色が濃く、牧草地にしてはもっと直線的に茎が太いイメージからすると、「大麦」の畑だったような気が、今はしています。

 

 

 なんで、大麦??

 

 

 きっかけは「年をとったら自宅でテイクアウト専門のドリンクとお菓子の店が出来たらなぁ」と妄想を膨らませた途上でのこと。基本は自家もしくは地場産品を使ったものが素材です。その中でぼんやりと「大麦」という存在は候補には上がっていました。

 

 結婚してここに住み始めた当初、この地域は昔大麦を栽培して、かつてあったという水車で押し麦に加工していたということを古老から聞き及んでいました。実際に今も一つ下の集落ではビール用にわずかですがミカモゴールデンという二条皮麦を栽培しています。

 また、山を一つ越えた神社の縁起物が「むぎこがし(はったいこ)」と呼ばれる大麦(関東は主に皮麦、関西では裸麦を使うらしい)を香ばしく炒って挽いた粉であることからも、大麦はこの付近では太古の昔から大切にされていたことがわかります。

 何故大麦なのか?お米は何らかの要因で、とても手に入りにくいものだった。しかし、大麦は当時とても身近なものであったのではないでしょうか。それには地形的な問題もあったと私は思います。山の上のここでは入梅前の湿度が高く、小麦は向いていないのです。それは数年前に遊びで、地粉で有名なナンブコムギとパン用のユメカオリ、麦茶用の六条皮麦(麦の品種については後日詳しく)のシュンライと六条裸麦のもち麦、土作りに使われるライムギとオーツ麦を育てた時、一番早く穂が立つのが大麦であるシュンライともち麦であることから気付きました。つまり、収穫期に雨に当たると良くない麦類の中で、梅雨前に収穫し易いのが大麦なのです。

 

 ただこの時は折角収穫したものの、シュンライの活用は麦茶ぐらいしか思い浮かばず、もち麦はようやく脚光を浴び始めたぐらいの時期で、玄米ご飯にそのまま炊き込み「固いなぁ~」と思いつつ食べていた程度でした。押し麦は特殊な装置がないと家では出来ないし、むぎこがしは皮麦の場合、炒ったあと製粉し、ふるいで皮を取り除くというやや厄介なもののため、私の中で大麦は手を持て余す存在と化していました。

 

 その後も日本での食用の歴史などを調べてみましたが、「ひきわり麦」や「えまし麦」といった記述しかなく、明治から大正にかけて「押し麦」が発明されるまでは、ぼそぼそした貧乏人の食事という地位に甘んじていたようです。それは世界での歴史も同じで、大麦は草勢が強く比較的早く普及したのにもかかわらず、小麦やその他の穀物に地位が奪われていき、貧乏人や飼料・酒の原料として生きながらえてきた存在であるようです。その後、日本では戦後の栄養補給としてビタバアレーがご飯に炊き込まれ、しかし雑穀ブームの時には目立たず、健康茶ブームにはそのベースとして必死に縁の下を支え、だけど健康食として学校給食や病院食には麦ごはんがじわじわ根付き、もち麦のブームが現在到来中…といった遍歴を経てきているようです。

 

 

 忘れられた甘味料

 

 

 それが、がぜん私の中で大麦が「大復活」したのが今年の秋。それは「砂糖の代わりになるもの」探しの最中でした。

 ドリンクにしろ、お菓子にしろ、必ず「砂糖」がつきもの。国産といえば北海道の甜菜糖か沖縄の黒砂糖が思い浮かびますが、地元が牛乳や野菜の産地であるが故、出来れば砂糖も地元の物を…と考えていくと、代わりになるものといえば地元産のはちみつはありますが、なにぶん値段が張ります。花の資源量も限られているので、おいそれと増産は出来るものではないし、しかも一歳未満は摂取禁止。では甘酒はどうかというと、結構癖があるので好きな人は好きですが、主人みたいに嫌いな人もいるし…。

 

 そこでハタと気が付いたのです。「麦芽水あめがあるっ!」と。

 

 麦芽水あめ。

 麦の種子を発芽させ、乾燥させて粉末にしたものを、でんぷん質に作用させてできる天然の調味料。ご飯が口の中で唾液中のアミラーゼよって分解されて甘くなるのと同じ。麦芽を炒ったものや、もち米で作られた飴は滋養あるれっきとした漢方薬であり、恐らく有史以前、人類が大麦に会ったと同時に生まれ愛されて来たであろう歴史ある甘味料。私の中では昔の甘味料といえば「甘蔓(あまづら)」の方が頭に引っかかっていて、「飴」と表記されたいわゆる水あめのことはこの時まですっかり忘れていましたが…。

 

 これなら手間はかかるけど、自宅で作ることが出来ます。以前のマルシェで自家製の甘酒と麦芽水あめで作ったお菓子を売っている人に会って、珍しいなあと声を掛けたことも思い出しました。ましてやここはビール麦を育てている産地。近くの地ビール工房に頼めば地元麦で作った麦芽を分けてくれるかも?と安直に考えたわけです。

 で、早速工房へアタック。しかし「小売りは出来ません」と惨敗。ならばとネットで麦芽の小売りをしているところを探すと、あるにはありますが…産地が遠い。でも、身近には畑がある。ならば「じゃあ、一から麦を自分で育てちゃえ!」となったわけです。

 

 大きな麦の物語 その2「大麦を育てよう」に続きます。

「一歩ずつ」

 皆さんこんにちは。久々の投稿です。

 

 私事ですが、昨日、講習を受けてきました。あ、運転免許の講習ではありません(笑)。

 

 何かって?

 

 ヒントは、

 ・食品関係の仕事をしたいなら持っていた方がいいもの。

 ・一度取得すれば全国でも使える。

 ・しかも一日の講習でオーケイ!

 

 …正解は「食品衛生責任者」の資格であります。

 

 これは年数回のチャンスしかなく、しかも今年の講習会は前回までコロナの為中止になってしまい、今回が初めて。しかもしかも今年の六月に食品衛生法の改訂が行われており、今回の講習がその記念すべき(?)改定後の第一回目の講義。

 そのため参加者は通常より多い(であろう)100人に迫る人数だったようです。

 

 講義は9時からお昼を挟んで4時まで、テキストの内容を踏まえて午前と午後で講師を入れ替えての実技なしの6時間余り。受講料は1万1千円也。一生分なら安い。

 

 家のことを済ませて早めに出たものの、途中渋滞に巻き込まれて会場にギリギリで到着。でも他にも同時に結構駐車場に来ていて、私だけじゃなかったーとホッと一息。

 

 体調的にはすこ…し持病の影響の片頭痛が出ていたり会場の冷房が効きすぎていたりと万全ではなかったのですが、何とか持ちこたえ、眠気と戦いながらも一日が無事終了。

 

 めでたく修了証を頂いてまいりました。

 

 この資格、お店を持ったり厨房の責任者になる時に必要になるものですが、活用の方はというとまだまだ遠~い先の計画の予定の為と申しておきます。が、現在ジャム作りを行う上でもまんざら無駄にならない知識も学べたので、その点でも良かったと思います。

 

 千里の道も一歩から。

 

 ではまた。

「お不動さまの涙」

 半月くらい前からでしょうか、ふと思い出した「お不動さま」のことが気になってます。特に何かきっかけがあったわけではないのですが。そこでちょっと調べてみました。

 

 

不動明王

 

破壊と再生を司り、悪を滅する

 

不動明王(ふどうみょうおう)とは?

語源は「動かない守護者」を意味し、インド神話シヴァ神の別名です。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てます。その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け継がれているのです。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。

 

大日如来の化身として、どんな悪人でも仏道に導くという心の決意をあらわした姿だとされています。特に日本で信仰が広がり、お不動様の名前で親しまれています。そして、五大明王の中心的存在です。五大明王とは、不動明王を中心に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の5体のことを指し、不動を中心に東西南北に配されます。不動明王の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されることも多いです。ちなみに不動明王の持っている龍が巻きついている炎の剣が単独で祀られている場合があります。不動明王の化身とされ、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)などと呼ばれています。』

 

 とのこと。

 

 この説明で気になったのは、「シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てます。その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け継がれているのです。」の部分。

 

 つまり、お不動様のルーツは自然界の姿そのものなんですね。

 

 暖冬、冷夏、水害、台風、地震、噴火、そしてコロナ。

 

 自然界が乱れています。しかも原因は「当たり前となった人類の日常生活」。

 それ故に、お不動様はきっと怒っていらっしゃる。

 でも、本来その怒りは戒め・気づきをもたらさん為であって、憎しみではない。

 むしろ人々が嘆き悲しむ姿は一番見たくないであろう心優しいお方なんだと思う。だって同時に大日如来の化身でもあるから。

 

 真の救いとは何か?

 

 人々が自身の行動に責任を持ち、主体性を持って学び成長していくように導くこと。

 いかなる時も揺らがぬその決心で、甘やかされて育った子供を厳しく叱り教え諭す親心。

 

 「人間よ、その生き方で本当に良いのか?」

 「『私は悪くない』と逃げ、『不安だ不安だ』と迷い、『もうどうでもいいや』と乱れたままで。」

 

 きっと、今、お不動様は涙を流しているんだろうな。「人間よ、覚悟を決めよ」と。

 そんな気がします。

 

 

 それにしても…調べてみて驚きました。お不動様の背後に揺らめく炎、実は「迦楼羅(カルラ)」といういわば火の鳥つまり鳳凰で、そして右手に掲げている剣は先の説明の通り別名、「俱利伽羅龍王(くりからりゅうおう)」という龍の権化。鳳凰と龍、西洋的にはフェニックスとドラゴンというツートップが付いている、すんごい神様だということ!!

 今までお不動様にはなぜか縁がありませんでしたが、比較的近くにお不動様がいらっしゃるので、今度機会があったらたずねてみたいと思います(通院の時にいつも必ず通りかかるんだけど、ただ、その曜日って拝観がお休みなんだよね)。

 

 最近の「気になるぅ~」でした。

 

 

 ちなみに、お不動様はインドでは「アチャラ・ナータ(動かない守護者)」と呼ばれているそうですが、漬物の「あちゃら漬け」はポルトガル語やインドの「漬物」の意の「アチャール」から来たそうで、関係あるような、ないような…。確かに漬物も動かさないけど。

「牧神の愛が聴こえる」カテゴリーテーマの由来

 

 突然ですが、皆さんは12星座の中の山羊座のモチーフとなっている神様のこと、ご存知でしょうか?もしくは、ギリシャ神話の中の逸話の「王様の耳はロバの耳!」でなぜ王様はロバの耳になったのか?の経緯で登場する神様でもありますが。

 

 答えは、ギリシャ神話に登場する「パン」という半人半獣(ヤギ)の姿の牧畜の守護を司る神様のことです。ここで言う「牧神」とは、以降「パン」のことを指します。

 

 そのルーツはかなり古く、古代インドの「エア」という名前の神様に遡ります。いや、もっと古いかも?元々は自然界全てを統治する神でした。時代が下るにつれ、その存在は小さくなり、やがて悪魔のモデルにされてしまうのですが…。

 

 詳しくは↓私の執筆したHPも一読くださいませ~ってCMかよ!(笑)。

 

 http://puretown2.g2.xrea.com/sub5.htm

 

 

 その「牧神」が携えていたとされる楽器があります。それが「パンフルート」。あのピーターパンが腰に下げている楽器です。その音色はよく旅行番組のBGMや意外なところでは国民的アニメ「ちびまる子ちゃん」のBGMでも使われ聞くことが出来ますよ。少し前の話ですが、大河ドラマの「秀吉」の冒頭でもこの笛が使われていました。

 

 私は小学5年生の時に担任の先生の影響でこの楽器のことを知り、以降、教室や個人レッスンに通ったりもしながら細々と趣味としてですが大切に続けています。

 練習は一回につき15分~30分ほど。練習場所ですが、家の中では迷惑(何と、真夜中の冷蔵庫がうるさくて眠れないと苦言を呈するヒトもいるんで、なかなか苦労します)なので、もっぱら秘密の場所でやっています。

 

 実はこの楽器、音が大きくかなりの肺活量を要するので、息を吹き込むと体中がすっきりします。デトックス?を目的にこの笛を使うのはご法度だと思うのですが、「吹き込み」をしないと本来の笛の音色が出てきません。全身全霊をかけて「歌う」ことで、やっと一体感が出てきます。自分の周囲に音のヴェールが広がっていき、想いが広がっていくイメージで、祈りを込めて吹き込むことでこの笛本来の役割が果たせるのかなと思います。実際は時間が短いので「やっと出せたかな~」と思うところで時間切れになりますが。もっとも、あまり体力がないので無理が出来ないし、してはいけないという現実的な理由もあります。

 

 現在の曲目としては、セカイノオワリの「レイン」(メアリと魔女の花主題歌)、「風の通り道」(となりのトトロより)、「北の国からのテーマ」、リベラの「彼方の光」、「もののけ姫」、松山千春の「大空と大地の中で」、「いつも何度でも」(千と千尋の神隠し主題歌)辺りでありまして、自然系なもののセレクトが多いです。なおかつ、曲調が明るめのもの、希望の持てる歌詞のもの。美しいメロディーのものは概してマイナーなものが多いのでセレクトに苦労します。しかも歌詞が複雑すぎると、楽器が単なるカラオケになってしまい「吹くより歌った方がいいだろ!」みたいな感じになるし、基本パンフルートのソロ(独奏)なので、アカペラ(独唱)でも耐えられる曲を…となると、意外と「これ!」というのが少ないのが悩みの種。さらに、なるべく多くの方が知っている曲となると、こんな曲数になってしまいます。

 

 『自然界を統べる神の楽器の音色は、植物さんたちのささやき…』

 

 そんな思いを込めた曲を作っての演奏が夢ではありますが、はて、いつになるやら??

 

 

 それになぞらえてこんなカテゴリーテーマ名にしてみました。ここでは主に自然のこと、植物さんのこと、音楽のことなどについて書いてみたいなと思っています。

「チェンジ!チェンジ!チェンジ!」

 皆さんこんにちは。

 

 私事ではありますが、ひと月前、車を買い替えました。

 

 もともと二年前から先送りしてきた問題で、今年こそは10月の車検までに新車か中古車の購入か、そろそろ結論を出さなくちゃなあ…とは思っていたのです。ところが近所の小さな自動車修理工場兼中古車販売店の前を通りがかった時に一目惚れし、のんびり構えていたのが急に事態が動き出したのですからかなり泡食ってしまいました。購入手続きや売却先、保険とひたすらネットで泥縄勉強、冷や汗かきながらの日々を経てめでたく現在、家の庭にいます。ほっとしました(ただ、これには後日談があって、その後正規ディーラーでの法定点検も済ましてホッとしていたらなんと数日前、じいじに「おい、車検済み証のシールが貼っていないぞ!」と指摘され、愕然。前の持ち主がどうやら貼るのを嫌っていたらしく、中古車店に渡った時にから無かったらしい。とんだもう一泡を食う結果になりましたが、軽自動車協会に再発行に行って事なきを得ました)。

 

 今まで乗っていた普通車と製造年は一緒(!)という中古の軽なので、突然故障するリスクはありますが、税金は安いしガソリンは食わないし、私にとって「義母の好みの義父名義の車」という十年来の縛りから解放された瞬間(等級を生かすため保険は義父名義のままですが)でもありまして、やっぱり買い替えてよかったなあ、と心底思っています。

 

 色はオレンジ。今までは淡いブルーだったので、周囲はその変わりようは恐らくびっくりだと思うのですが、わたしとしてはむしろこの色だからこそ、でした。

 

 

 「チェンジ!」な出来事はこれで終わらず、車の問題にケリが付いたところで、次に噴き出したのが家の「光回線問題」。

 

 「この地区にもようやく光回線が開通したみたいだが、ぶっちゃけどうなんだ?調べとけ!」と義父に言われていたのが数カ月前。確かに開通はしたみたいなのに、コロナの騒ぎなのかNTT西日本のHPで検索しても開通のエリア表示がいつまでたっても出ない。工事を請け負ったケーブル会社は、単に「工事の請負」のはずなのに?と地区の婦人会で諸先輩方に聞いたら「ここは光回線はケーブル会社じゃないとだめだよー」とのこと。

 あれ?NTTの回線ではないのか??ケーブル会社の自社回線ということ???

 じゃあ今までのプロバイダは使えないってこと????

 ガーン、この地区はプロバイダがケーブル会社しか選べないんかーい!

 

 取りあえずNTTとケーブル会社の双方に電話して確認すると、やはり自社回線なのでプロバイダの変更が余儀なくされることが判明。ではプロバイダ解約に当たって何か影響はないのか?と、そんなにITに強くない私が調べ始めると、疑問点や問題点が次々と芋づる式に出るわ出るわ、パソコンにかじりついて数日間、頭がパンクしそうになりながらの猛勉強となりました。チェック対象も当初は夫婦のPCとじいじのPCだけだったのですが、さらに途中からじいじの旧PCの計三台となり、さらに面倒な状態に。

 

 結果、じいじのスマホを持つ前にとった追加メルアドが使えなくなることが判明、しかし現在そのメルアドは一切使っていないことを確認(そのために「数年前の浦島太郎状態」から二日がかりで復活!)。夫婦のPCは連絡先メルアドを変更することで問題回避。3人が現在メインで使っているメルアドは今後も使えることが判明して事なきを得ました。

 

 とりあえず、光回線の導入&プロバイダの変更は切迫していないので少し時間をもらい、実際の手続きは秋になってからという結論に。

 

 正直、疲れました。ただ後悔がないのは清々しく気持ちがいいものです。

 

 

 今まで結論が先延ばしになっていた二つのことに決断を迫られ、続けざまで忙しかったけど、さりとて「何でもいいや!とりあえず」ではなくきちんと現状を把握し、納得して結論を出すことが出来ました。そのために学ぶべきことは本当に本当に多かった(まあこれは今に始まったことではなくて、必然に迫られて携帯からスマホに乗り換えたのも家族の中で一番だったし(二人はあとから勉強も無しにすんなり)、HPの乗り換えもブログの引っ越しも冷や汗かきながらやったのは私だし(始めるのはいつも主人)、作家販売サイトの登録も私だし(主人は「早く販売してくれ」とせかすばかり)、「逃げたツケがいつか降りかかって来るぞ」と気を吐きつつやるのはいつものことです)けど、後悔しないためにはとても重要な事ですね。とても勉強になりました。

 

 さて。

 実は車の購入の電話をする前、「ほんとにこれで決めてしまっていいのか?」と少しだけ迷いがありました。そこでしょっちゅうやるわけではないのですが、占いでカードを引いてみたのです。

 

 出たのは「チェンジ・決断」を意味するカード。

 

 「あぁ、そういう潮時なんだ」と納得しました。

 

 この占いは以前やった時に「依存」を意味するのが出て、自身の依存心に気付くきっかけになりました。頼り切るまでもなく指針として信頼していいものだと思っていたので、今回も「よし、これで行こう!」と背中を押された格好になり踏ん切りがつきました。もし仮に新車を選んだとしても、当たりはずれで壊れるものはすぐ壊れます。あとは自分で大事に出来るかだと思います。プロバイダの件にしても、選択無き状態がかえって吉となる場面は人生ありますしね。

 

 また、これは私個人の身に起こったことだけど、この世界そのものも、その時期なのではないかな、と思います。未来への方向性や方策まではまだ見えなくても、少なくとも「今まで常識だったことが実はとても間違っていたんじゃないか?」と気付き、学べたことが多い日々であったと思います。今までの日常に戻ってはいけません。変わらなければならないのです。

 

 かのオバマさんではないけど、皆さん、日々「チェンジ!」してますか?ぼーっと生きてませんか?

 

 

 それではまた。

 

 

 …で終わるはずが、なんと昨日、今度は冷蔵庫が壊れました。またまた「チェンジ!」です。22年頑張ってくれた冷蔵庫くんに変わり、明後日には新人が来ます(出費が痛いよー)。

「ブログ書きはつらいよ」

 こんにちは。yama-hitujiです。

 

 皆さんブログって、結構サクサク書いてますよね。

 

 羨ましい…。

 

 ワタクシは文章や詩を書くのが基本好きです。が、想いを込めて主張の文章を書くときは、まず心の想いをだぁーっと書き連ねて、要点を徐々にまとめ、削り、書き加え、順番を整え、何日も見直し…なんてことをしているもんですから、一つ書き上げるまでにへとへとになることもしばしば。これは高校時代の論文発表の頃からのクセでして、発表当日になって大幅に書き換え(事前に審査の方々に文章が配られているのを知らんかった…)、気まずい思いをしたこともあります。そのくせ文章の丸暗記は苦手。

 

 その点、詩は楽といっては楽ですが、思い浮かんだ時にパッとメモしないと後で思い出せなくなる悲劇が。その後は気になって気になって…一日中考えていたりします。そして詩は浮かんだとこ勝負の所が多い。詩ではなく歌詞に仕立てたくて2番を考えたくなる時もあるにはあるのですが、どうも文字数合わせやメロディーがうまくいかなくなって放り出したものがいくつもストックされています。詩はいじればいじるほど駄目ですねー。小学生の5年の時かな、先生に認められてクラス報に乗ったのが詩に目覚めたきっかけ。詩に関してはまだネットでは公開していないので、いずれお披露目したいとは思っています。

 

 という感じで、毎回実は苦労しながら文章書いています。自分の思いを形に残したいし、ネット上なら、いつか誰かが読んでくれるかもしれない。高校時代の発表会みたいに審査されて評価されるだけ、人の心にはちっとも届いていきやしない、全校生徒の前で発表した時のあの虚しさよりは、今は幸せな気はします。

 

 ではまた。

「自粛の日々は忍耐の日々?」

 皆さんこんにちは。

 

 静かな静かなゴールデンウィークが終わりました。早速上空には自衛隊?米軍?基地の演習飛行の爆音が響き、山にはたくさんの土砂運搬のダンプが上がってきてせっせこせっせこと谷を埋めています。この二つはコロナなどどこ吹く風なのがどうもシャクに障りますが、操縦者や運転手には罪はなく、「そういったことを必要としている社会そのもののシステム」に腹が立ちます。

 

 さて、世界中がステイホームを声高に叫び、その一方で経済活動を再開させろと暴動が起きています。この風潮、雰囲気はまさしく戦前の米騒動や戦中の「ぜいたくは敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」とそっくりで、いかんせん「自粛しない奴は敵だ」「勝った暁には贅沢三昧な日々を再び…」という人間の浅ましさが感じられるのは私だけでしょうか?

 

 皆さんはどうですか?やはり「自粛の日々は忍耐の日々」ですか?

 

 「おうち時間を楽しもう♪」も、断捨離も、やがて飽きが来ます。テレビのVTR特集もネタが切れるでしょうし、あらゆるお取り寄せグルメ通販も金銭的に余裕が減ってくれば続かなくなる。イベント三昧や飲み屋のハシゴが懐かしい。「元のような生活がしたいなあ」というストレスは確実にたまりますよね。それだけを前提に考えると、忍耐の日々ということになるでしょう。

 

 しかし、障碍者の立場の方々の日々はある意味、いやもっと苛酷に見える生活が「日常」です。でもそれを「忍耐の日々」とは言わない。福島の原発被害の方たちの一時の状態も近いとも言えるでしょう。外出もままならず、他人と接する機会が少ない。子供たちが外で自由に遊ぶことすら出来なかった。でもそんな日々を両者の方々はちゃんと乗り越えて生活している。

 

 全人類の方々がそれを共感できるチャンスを、このコロナさんがくれたと言っても過言ではないのではないでしょうか。

 

 「忍耐の日々」ととらえるからこそ、いつか欲望が暴走し歯止めが利かなくなる。ちょっと規制を緩めれば油断して、また感染爆発の繰り返しになるパターンになる気が…。

 

 でも。そもそも「収束」への期待って何でしょう?コロナさんはどうやら水ぼうそうと同じように、人類の7割が常に感染し抗体を持っている状態にならないと収まりが付かないように私は思うのですが。水ぼうそうさんは一度症状が治まっても神経細胞の端っこに住み着き(半共生?寄生?)、免疫力が落ちて来ると「帯状疱疹」を引き起こすウイルスです。ということは、完全な収束まで早くとも3、4年かかるんじゃないでしょうか。しかもそれは頻繁な変化を起こさない、という条件付きでの話です。だとしたら、「あと2週間頑張ってください」「あと少しの辛抱です」というフレーズ自体が虚しい。いっそのこと「収束まであと数年はかかる」としっかり腹をくくる方が、変に期待をその度に裏切られるより落胆感は少ないと思うのですがどうでしょうか?

 

 

 では、収束したら「のど元過ぎれば熱さ忘れる」この世界のままで本当にいいのでしょうか?

 

 私は思います。「それでは地球環境と全人類の100年後はない」と。

 

 ここでは医療関係で頑張っていらっしゃる方々や、真に希望をつなごうとしている方々の話は抜きにして言いますね。

 

 

「ある意味、コロナ旋風が収束せず、100年の後までも続いていて欲しい!」

 

 

 …(ハッキリ言って暴言だ!)。

 

 人類にとっては悪魔ですね。私の考えって。自然界にとっては福音ですが。いや、「本来の人類の自然な生態」にとっては理に適ったことだと思うのですが。

 

 

 じゃあ、「コロナの前の世界が、本当に人類にとっていい社会であったのか??」

 

 

 高度経済成長から始まった満員電車の風景。感覚がマヒしていたからわからなかっただけで、それが正しかったのですか?今そのストレスから解放されてホッとしていませんか?

 

 嫌な上司、つまらない授業、いじめ。テレワークやオンライン授業で解放されてホッとしていませんか?

 

 余りにも密集した住宅群、社会的距離以前に不自然と感じないのですか?

 

 外国人労働者に頼らなければやっていけない農業、建築業、零細加工業。それで将来も本当にいいのですか?

 

 為替レートゆえ低価格。それをいいことに依存してきた、遠くから運んでこなければならないマスク、医療用ガウン、食料品。それでよかったのですか?

 

 観光客に頼らなければならない地域経済、それでいいのですか?

 

 暇だからパチンコ、そんなグータラで人生ほんとにいいのですか??それに依存しなければストレス発散できない社会、そんな世界に本当に戻りたいのですか?

 

 

 私は、コロナが収束「しないこと」で、今まで目をそむけてきた問題に真に取り組み、世界が良い方に変わっていって欲しいのです。

 

 

 経済が停滞したことで原油が余り、グレタさんがケンカ腰にならなくても、二酸化炭素の排出があっという間に減りました。ヒマラヤが見え、ベニスの運河が澄んだ。これは良い事ですか?悪い事ですか?

 

 昔、社会の先生に「人間の身体の周りには、それ以上赤の他人が近づくと圧迫感などのストレスを感じ始める距離がある。それは大体半径1メートル。」と聞いた記憶があります。コロナ感染爆発を避けるために社会的距離を保った結果、真のストレスフリーが実現できる、そのチャンスではないですか?

 

 東日本大震災の時、計画停電原発なしでも乗り切りました。人との接触8割減でも経済が回るようにすれば、逆に今までそれだけ無駄な経済活動をしていたことに気付く。今までよりもっと通勤時間に人生を割くことなく、地元で勤め、生活に密着したものを地元で作り、回す。こころは地球規模のグローバルな視点で、されど、人や物の移動マイレージは数値が少ないに限ります。自分の健康維持のためには関心が高く、遠くから運ばれるアーモンドミルクやココナツを食べてビーガンだ動物愛護だと自慢してるけど、地球の健康維持には無関心、それでいいのですか?

 

 最近誠しなやかに流れている「コロナウィルスからの手紙」もそうですが、確かにコロナの症状を地球の状態に置き換えるという発想が人類には必要だと思う。そう考えれば、「自粛は忍耐、人類の苦しみ」という発想自体が消えて、むしろ「今まで自粛すべき人間生活をなぜ私たちはしないで来たのか?」ということに行きつく。「収束」をすることを期待し、我が世の春を再びという「人間の心に巣食う欲望」に気付く。むしろ今までの社会が「異常」であったという事実、そしてこれから真の人間らしい生態の生活が営めるチャンスを与えられたという想いを今度こそ全人類が共有出来たらなと私は切に願います。

 

 流行でなく、文化そのものを変える。「コロナ自粛の日々は人間らしい生活とは何かを真剣に考え、学び、変えるための日々だった」と後の世に言えるように。

 

 最後に。必死に命と向き合う医療関係者の皆さま、介護関係の皆さま、児童福祉関係の皆さま、障碍者関係の皆さま、安全保安員の皆さま、そのほか希望を必死につなごうとしている皆々様に熱いエールと光が届くことを祈って。

 

 いろいろ書きましたが…それでは、また。

 

 

 P・S

 ちなみに「コロナ」についての余談ですが。

 

 最近、昔読んだキリスト教の絵本のページをふと思い出しました。それはキリストさんがあらゆる悪を滅ぼすためのハルマゲドン(最終戦争)に、神の軍隊を率いて天から下って来る様子を描いたもので…。

 

 「そういえばキリストさんは地上の王たるべく『黄金の冠』を被っていたなぁ」と。

 

 

 そしてもひとつの気がかり、元号について。「令和」をバラバラにして読み解くと…?

 

「令」は「れい」と読み、アラビア数字の「0(ゼロ)」も日本語では「れい」と読みます。

さらにカタチを発展すると、アルファベットの「O(オー)」、すなわち「王」とも。

 

「和」は「わ」と読み、これまた「輪(わ)(リング)」ともとれる。

 

 

 ……?「なんのこっちゃ?」と言われるでしょうが。

 

 〈ウイキペディアより〉「コロナウイルスの名称」は、

 

ラテン語の【コロナ】及びギリシャ語の「王冠」または「光冠(丸い光の輪)」を意味する【コロネ】に由来する』

 

 そうです。…この一致、あなたはどう思われますか???