あひるのひとりごと

国指定の難病であるSLE(全身性エリテマトーデス)患者だけど、精一杯生きてます。大好きな植物さんのこと、ルーマニアの伝統楽器パンフルートのこと、夢の実現への足取りや、そのほか想うこと…書いています。

「ブログ書きはつらいよ」

 こんにちは。yama-hitujiです。

 

 皆さんブログって、結構サクサク書いてますよね。

 

 羨ましい…。

 

 ワタクシは文章や詩を書くのが基本好きです。が、想いを込めて主張の文章を書くときは、まず心の想いをだぁーっと書き連ねて、要点を徐々にまとめ、削り、書き加え、順番を整え、何日も見直し…なんてことをしているもんですから、一つ書き上げるまでにへとへとになることもしばしば。これは高校時代の論文発表の頃からのクセでして、発表当日になって大幅に書き換え(事前に審査の方々に文章が配られているのを知らんかった…)、気まずい思いをしたこともあります。そのくせ文章の丸暗記は苦手。

 

 その点、詩は楽といっては楽ですが、思い浮かんだ時にパッとメモしないと後で思い出せなくなる悲劇が。その後は気になって気になって…一日中考えていたりします。そして詩は浮かんだとこ勝負の所が多い。詩ではなく歌詞に仕立てたくて2番を考えたくなる時もあるにはあるのですが、どうも文字数合わせやメロディーがうまくいかなくなって放り出したものがいくつもストックされています。詩はいじればいじるほど駄目ですねー。小学生の5年の時かな、先生に認められてクラス報に乗ったのが詩に目覚めたきっかけ。詩に関してはまだネットでは公開していないので、いずれお披露目したいとは思っています。

 

 という感じで、毎回実は苦労しながら文章書いています。自分の思いを形に残したいし、ネット上なら、いつか誰かが読んでくれるかもしれない。高校時代の発表会みたいに審査されて評価されるだけ、人の心にはちっとも届いていきやしない、全校生徒の前で発表した時のあの虚しさよりは、今は幸せな気はします。

 

 ではまた。

「自粛の日々は忍耐の日々?」

 皆さんこんにちは。

 

 静かな静かなゴールデンウィークが終わりました。早速上空には自衛隊?米軍?基地の演習飛行の爆音が響き、山にはたくさんの土砂運搬のダンプが上がってきてせっせこせっせこと谷を埋めています。この二つはコロナなどどこ吹く風なのがどうもシャクに障りますが、操縦者や運転手には罪はなく、「そういったことを必要としている社会そのもののシステム」に腹が立ちます。

 

 さて、世界中がステイホームを声高に叫び、その一方で経済活動を再開させろと暴動が起きています。この風潮、雰囲気はまさしく戦前の米騒動や戦中の「ぜいたくは敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」とそっくりで、いかんせん「自粛しない奴は敵だ」「勝った暁には贅沢三昧な日々を再び…」という人間の浅ましさが感じられるのは私だけでしょうか?

 

 皆さんはどうですか?やはり「自粛の日々は忍耐の日々」ですか?

 

 「おうち時間を楽しもう♪」も、断捨離も、やがて飽きが来ます。テレビのVTR特集もネタが切れるでしょうし、あらゆるお取り寄せグルメ通販も金銭的に余裕が減ってくれば続かなくなる。イベント三昧や飲み屋のハシゴが懐かしい。「元のような生活がしたいなあ」というストレスは確実にたまりますよね。それだけを前提に考えると、忍耐の日々ということになるでしょう。

 

 しかし、障碍者の立場の方々の日々はある意味、いやもっと苛酷に見える生活が「日常」です。でもそれを「忍耐の日々」とは言わない。福島の原発被害の方たちの一時の状態も近いとも言えるでしょう。外出もままならず、他人と接する機会が少ない。子供たちが外で自由に遊ぶことすら出来なかった。でもそんな日々を両者の方々はちゃんと乗り越えて生活している。

 

 全人類の方々がそれを共感できるチャンスを、このコロナさんがくれたと言っても過言ではないのではないでしょうか。

 

 「忍耐の日々」ととらえるからこそ、いつか欲望が暴走し歯止めが利かなくなる。ちょっと規制を緩めれば油断して、また感染爆発の繰り返しになるパターンになる気が…。

 

 でも。そもそも「収束」への期待って何でしょう?コロナさんはどうやら水ぼうそうと同じように、人類の7割が常に感染し抗体を持っている状態にならないと収まりが付かないように私は思うのですが。水ぼうそうさんは一度症状が治まっても神経細胞の端っこに住み着き(半共生?寄生?)、免疫力が落ちて来ると「帯状疱疹」を引き起こすウイルスです。ということは、完全な収束まで早くとも3、4年かかるんじゃないでしょうか。しかもそれは頻繁な変化を起こさない、という条件付きでの話です。だとしたら、「あと2週間頑張ってください」「あと少しの辛抱です」というフレーズ自体が虚しい。いっそのこと「収束まであと数年はかかる」としっかり腹をくくる方が、変に期待をその度に裏切られるより落胆感は少ないと思うのですがどうでしょうか?

 

 

 では、収束したら「のど元過ぎれば熱さ忘れる」この世界のままで本当にいいのでしょうか?

 

 私は思います。「それでは地球環境と全人類の100年後はない」と。

 

 ここでは医療関係で頑張っていらっしゃる方々や、真に希望をつなごうとしている方々の話は抜きにして言いますね。

 

 

「ある意味、コロナ旋風が収束せず、100年の後までも続いていて欲しい!」

 

 

 …(ハッキリ言って暴言だ!)。

 

 人類にとっては悪魔ですね。私の考えって。自然界にとっては福音ですが。いや、「本来の人類の自然な生態」にとっては理に適ったことだと思うのですが。

 

 

 じゃあ、「コロナの前の世界が、本当に人類にとっていい社会であったのか??」

 

 

 高度経済成長から始まった満員電車の風景。感覚がマヒしていたからわからなかっただけで、それが正しかったのですか?今そのストレスから解放されてホッとしていませんか?

 

 嫌な上司、つまらない授業、いじめ。テレワークやオンライン授業で解放されてホッとしていませんか?

 

 余りにも密集した住宅群、社会的距離以前に不自然と感じないのですか?

 

 外国人労働者に頼らなければやっていけない農業、建築業、零細加工業。それで将来も本当にいいのですか?

 

 為替レートゆえ低価格。それをいいことに依存してきた、遠くから運んでこなければならないマスク、医療用ガウン、食料品。それでよかったのですか?

 

 観光客に頼らなければならない地域経済、それでいいのですか?

 

 暇だからパチンコ、そんなグータラで人生ほんとにいいのですか??それに依存しなければストレス発散できない社会、そんな世界に本当に戻りたいのですか?

 

 

 私は、コロナが収束「しないこと」で、今まで目をそむけてきた問題に真に取り組み、世界が良い方に変わっていって欲しいのです。

 

 

 経済が停滞したことで原油が余り、グレタさんがケンカ腰にならなくても、二酸化炭素の排出があっという間に減りました。ヒマラヤが見え、ベニスの運河が澄んだ。これは良い事ですか?悪い事ですか?

 

 昔、社会の先生に「人間の身体の周りには、それ以上赤の他人が近づくと圧迫感などのストレスを感じ始める距離がある。それは大体半径1メートル。」と聞いた記憶があります。コロナ感染爆発を避けるために社会的距離を保った結果、真のストレスフリーが実現できる、そのチャンスではないですか?

 

 東日本大震災の時、計画停電原発なしでも乗り切りました。人との接触8割減でも経済が回るようにすれば、逆に今までそれだけ無駄な経済活動をしていたことに気付く。今までよりもっと通勤時間に人生を割くことなく、地元で勤め、生活に密着したものを地元で作り、回す。こころは地球規模のグローバルな視点で、されど、人や物の移動マイレージは数値が少ないに限ります。自分の健康維持のためには関心が高く、遠くから運ばれるアーモンドミルクやココナツを食べてビーガンだ動物愛護だと自慢してるけど、地球の健康維持には無関心、それでいいのですか?

 

 最近誠しなやかに流れている「コロナウィルスからの手紙」もそうですが、確かにコロナの症状を地球の状態に置き換えるという発想が人類には必要だと思う。そう考えれば、「自粛は忍耐、人類の苦しみ」という発想自体が消えて、むしろ「今まで自粛すべき人間生活をなぜ私たちはしないで来たのか?」ということに行きつく。「収束」をすることを期待し、我が世の春を再びという「人間の心に巣食う欲望」に気付く。むしろ今までの社会が「異常」であったという事実、そしてこれから真の人間らしい生態の生活が営めるチャンスを与えられたという想いを今度こそ全人類が共有出来たらなと私は切に願います。

 

 流行でなく、文化そのものを変える。「コロナ自粛の日々は人間らしい生活とは何かを真剣に考え、学び、変えるための日々だった」と後の世に言えるように。

 

 最後に。必死に命と向き合う医療関係者の皆さま、介護関係の皆さま、児童福祉関係の皆さま、障碍者関係の皆さま、安全保安員の皆さま、そのほか希望を必死につなごうとしている皆々様に熱いエールと光が届くことを祈って。

 

 いろいろ書きましたが…それでは、また。

 

 

 P・S

 ちなみに「コロナ」についての余談ですが。

 

 最近、昔読んだキリスト教の絵本のページをふと思い出しました。それはキリストさんがあらゆる悪を滅ぼすためのハルマゲドン(最終戦争)に、神の軍隊を率いて天から下って来る様子を描いたもので…。

 

 「そういえばキリストさんは地上の王たるべく『黄金の冠』を被っていたなぁ」と。

 

 

 そしてもひとつの気がかり、元号について。「令和」をバラバラにして読み解くと…?

 

「令」は「れい」と読み、アラビア数字の「0(ゼロ)」も日本語では「れい」と読みます。

さらにカタチを発展すると、アルファベットの「O(オー)」、すなわち「王」とも。

 

「和」は「わ」と読み、これまた「輪(わ)(リング)」ともとれる。

 

 

 ……?「なんのこっちゃ?」と言われるでしょうが。

 

 〈ウイキペディアより〉「コロナウイルスの名称」は、

 

ラテン語の【コロナ】及びギリシャ語の「王冠」または「光冠(丸い光の輪)」を意味する【コロネ】に由来する』

 

 そうです。…この一致、あなたはどう思われますか???

「心に太陽を、唇に歌を」

 皆さんこんにちは。

 日々いろいろな情報が飛び交い、コロナコロナでまるで戦時中のような状況になって来ました。不安感ばかりが増していきます。

 現在世界の人口はざっと77億1500万人。全人口が感染し、コロナで仮に重症化するという5%の方が全て亡くなるとすれば、3億8575万人が犠牲になる計算。関連死も含めたらもっとかもしれない。日本の総人口1億2595万人より多いんです。で、もし日本の総人口の5%の方が亡くなると仮定すると…約630万人の方が犠牲に。電卓が壊れてるんじゃないかと何回も確認しましたが、この数字が変わることはありませんでした。

 

 「明日は我が身」。

 その覚悟を決めて誰もが生き抜く時代が来ました。

 

 前回、このブログで「希望の光の『白い闇』の中にいるようなものだ」と書きましたが、人と接するときは2メートル離れてなんて報道を見るにつれ、まさしく「白い闇」そのものの中にいるという実感が日に日に増しています。地球全体がすっぽりと濃霧に包まれ、まるで「トンネルの中を進んでいる」ような感じです。出口の見えない、短いのか長いのかさえ分からない状態…。

 

 でも、人間にはそれでも前を向こうという本能があります。

 こんな時に私が思い出すのが、この詩。

 

 

 『心に太陽を持て』

 

心に太陽を持て

あらしが吹こうが、

雪がふろうが、

天には雲、

地には争いが絶えなかろうが!

 

心に太陽を持て

そうすりゃ、何がこようと平気じゃないか!

どんな暗い日だってそれが明るくしてくれる!

くちびるに歌を持て

ほがらかな調子で。

 

毎日の苦労に

よし心配が絶えなくとも!

くちびるに歌を持て

そうすりゃ、何がこようと平気じゃないか!

どんなさびしい日だって

それが元気にしてくれる!

 

他人のためにも、ことばを持て

なやみ、苦しんでいる他人のためにも。

そうして、なんでこんなにほがらかでいられるのか、

それをこう話してやるのだ!

 

くちびるに歌を持て

勇気を失うな。

 

心に太陽を持て

そうすりゃ、なんだってふっ飛んでしまう!

 

(ドイツの詩人ツェザール・フライシュレン作。高橋健二が紹介し山本有三が訳詩)

 

 

 私たちは、闇ではなく光のトンネルの中にいるんです。そう信じさえすれば。

 

 だから闇雲に現状を不安がるのではなく、「真っ白な濃霧に包まれて2メートル先の人の姿がまともに見えず、話せない状態だけなんだ」と、各々がまぶしく光り輝く太陽を自らの中に描き心を強く持つことで、現状がきっと変わっていくのだと思うのです。

 自暴自棄になったり、自分は関係ないと現実逃避したり、他人のせいにしたり、政治家を愚痴っている場合ではありませんよ!不安だ不安だと当たり散らし何も解決しないことに費やしてるヒマなんて一秒もない!やれることを探そう!

 

 そうそう、「いつも何度でも」の中でも歌われていますよね?

 

 

 …かなしみの数を 言い尽くすより、同じくちびるで そっと歌おう

 …輝くものは いつもここに、わたしの中に見つけられたから

 

 

 自らが歌い、「私はここにいる」と互いに声を掛け合い、日々を過ごせたらいいですね。

 人々の心がこの騒動の前より少し、優しくなりますように…。

 

 ではまた。

「希望探しゲームが終わる日に」

 ある夜、一人、ポツンと考えていました。

 「これからの未来は何を見つめていけばいいんだろう?」

 

 頭に思い浮かんだのは、真っ白いノート。

 

 そういえば、どこかの予言者の言葉があったっけ……。

 「20??年以降の人類の未来は真っ白で何も見えない。あなた方の描くもの次第だ。」

 

 よく、卒業式や結婚式で「キミたちの未来は真っ白いキャンバスだ、自分の夢を思うがままに書けばいいんだ」とはよく言います。が、じゃあ、実際に書き始める時、人はどうするか?

 まず、自分の心の中にイメージを描く。そしてそれをもとに下書きをし、色を塗っていく。自分の中にイメージがきちんと描けたら、もう90%は絵が完成したも同然(上手い下手は別として)。

 しかし、イメージが浮かばない、書きたいものがない、始める手掛かりさえない時は?

 この状態、うつや引きこもりの時の心理にとても良く似ています。

 実際にはノートやキャンバスといった二次元より、辺り一面前後左右が真っ白な霧に覆われた中にポツンと一人立っている、という方がしっくりくるでしょうか。

 

 純粋・無垢・希望のイメージがある「白・光」ですが、実は「黒・闇」よりも怖い一面があります。

 暗闇での一本の灯火はとてもよく目立ちます。それ故に、人はそれを導きとしやすい。ところが逆に辺り一面の光の中では何も見えない。雪原の黒豆一つは、反射光や白色の膨張効果もあってかき消されてしまう。深い霧のかなでは足元さえ見えない。いわゆる、「ホワイトアウト」というやつです。もしくは「五里霧中」でしょうか。

 世の中の悪いものも、一寸先も、足元も、真っ白い「希望の光」に満ち溢れていると何も見えない。

 逆に、それが怖いのです。

 

 そんな時、人はどうすべきか。

 

 昔、高校生の時にスキー合宿で宮城県蔵王に行きました。一日目二日目はほどほどの天候だったのですが、最終日は吹雪の中、山頂付近から麓までスキーで下るという最終ミッションが行われました。

 地元インストラクターの先導のもと、美しいと言われる樹氷なんて楽しむ余裕もないまま、無我夢中で前を行く人を見失わないようについていき、ゴールまでたどり着いたときは皆でほっとしたの覚えています。なんせ数日前までスキー靴を履いてゲレンデに立ってるのがやっとという初心者達なのですから、よくまあ事故を起こさずに終わったものだなあと。

 

 今、あの時のような先導となるインストラクターはいません。

 

 今、立っているところが山なのか、平地なのか、崖っぷちなのか、それさえも分からない。

 辺りは白く深い霧の中。持っている電灯も役に立たない。

 でも、さっきまで誰かが隣にいた。それだけはわかる。

 上手くやってやろうなんて考えも、自分は世界一だなんて思いも、霧の中では通用しない。

 ましてや名誉もお金も価値を持たず、すべて消し飛んだ、その中で残ったもの、それは《自分》という存在感だけ。

 

 そんな時、人はどうするか?

 

 闇と言う字は門構えに音と書きます。希望の光の「白い闇」の中で響くもの、それは「音」です。

 

 灯台守は知っていました。霧笛を鳴らす意味……「私はここにいる」。

 コウモリやイルカたちは知っていました。エコロケーション反響定位)の意味……「あなたはどこなの?」。

 

 そうだ、私の全てを楽器にして、あたりに響かせよう。

 

 「おーい!」

 

 たぶん誰もが必死で声を上げると思います。きっと近くにいる、誰かに向かって。

 

 「私はここだ!私はここにいる!」「誰かいないの?誰か~」

 

 どこかから声が聞こえる。見えなくても、誰かを感じる。

 声が一つ上がり、二つ上がり、三つ上がり、不思議なハーモニーになっていく。

 その時、希望の光は音色になる。虹色の音階が満ち溢れていく。

 まるで、パンフルートのよう。

 管の一本一本が私たち一人一人。どこか遠くに行く必要はない。ただ一人一人がその場所でその身を響かせ、輝かせ、各々の音を奏でればいい。生まれ持った《自分》という名の音を。

 

 だけど。

 多くの人がこの世の暗さを嘆きます。勘違いに気付かずに。

  この世は真っ暗だ。未来なんてこない。地球はボロボロだし、災害は多いし……。

  子供たちまで「子供を作らない宣言」をする始末。不安だらけの世の中だ……。

 

 そうじゃない!

 

 真っ白い光の中で今私たちは生きている。「希望の光」に目がくらんでいるだけ。目が慣れていないだけ。

 

 この世界はどんなものでさえ、先人たちの作った「希望の光」だけで出来ています。過去が暗ければ暗いほど今、周りに満ち溢れているのは光、その中で私たちは生きているのです。

 ドラえもんを思い出してください。テレビも、車も、スマホも、ドローンも、みんな先人たちが心に描いた「こうなったらいいな」が形になった物です。希望の塊に囲まれて今の私たちは生きている。

 今自分がいるのは真っ白い「希望の光の中」。もう希望探しゲームはいらない。

 

 それに気付いて。それに自信をもって。

 

 光の眩しさに慣れた時、霧の中でも一人ではないと気付いた時、きっと私たちは未来への迷いがなくなっていることでしょう。

 

 白いノートからそんなことを考えた、夜でした。

〈SLE体験談 続きその1〉

 皆さんこんにちは~お元気ですか?SLEのyama-hitujiです(笑)。

 池江選手、退院されましたね!良かった良かった。9か月余りですか、私はたかだか1カ月の入院生活ですから、長かったと思います。それにしても、「病気によって失ったものより、病気になったからこそわかること考えたこと学んだことが多い」との趣旨のコメント、さすが真の一流選手だなあ~と感心しきり。でも考えてみれば、スポーツ選手は常に怪我や不調との孤独な闘いを強いられて(あえて自分自身で強いて)いる方たちですから、それを病気に置き換えて乗り越える、その強さの持ち主なんでしょうね。にしても、この若さでこのコメントはすごい。私なんか吹っ切れたのは四十ですからね。見習わなくては。

 

 さて、前回の外来日は12月24日、クリスマスイブでした。

 

 二年前、ちょうどこの日は入院してから地獄の腎生検(局部麻酔で腎臓に針を差し込み、病理組織を取り出してする検査。しんどかった~!!)を終え、SLEであるという確定診断もされ、翌25日からステロイド治療が始まる…という、ある意味ほっとしていた日でした。「ステロイドがきちんと効けば病気としてはこれで落ち着くはずだし」という明るい見通しに、恐らくまだ熱はあり全身の痛みはあった状態だったと思うのですが、病院という医師や看護婦さんたちに温かく守られた空間で、「万が一、何かあっても大丈夫」という安心感に包まれ、穏やかに時が過ぎて行ったように思います。

 

 あれから二年がたった今年のちょうどその日、また一つの区切りを迎えました。血漿交換療法の打ち切りです。

 

 今まで四週ごとに行っていて数値的には安定してきたため、一度やめて様子を見てみることになりました。ただし、次回の外来後のさらに次の四週後(つまり八週間後)を迎えるまでに、何か違和感が発生するようであれば、もしくはまた数値が悪化する傾向があれば再開せざるをえませんが。

 次回外来以降の身体の変化に気を付けなくては…と少々の不安は感じつつ、丸二年間お世話になった血液浄化センターの皆さんにお別れの挨拶をしてきました。ここのセンター内の明るい雰囲気が私は大好きでした。療法にはたっぷり二時間はかかるので、病院通いは大変ですねと時々人に言われることもありましたが、何のなんの、その間は気持ちよくて居心地よくて半分とろ寝状態だし、スタッフさん同士の会話に思わずクスクス笑ったり(だっておかしいんだもの!)、モニターで見るTVのヒルナンデス!でファッションの勉強したり、日常ではできない贅沢な時間を過ごさせてもらいました。むろん外来の通院はこれからも続くわけで、「たまには元気な姿をセンター(センターといっても独立しているわけではなく、外来と同じ階の一室に過ぎませんからね)に見せておくれよ!」とエールをくれました。

 また調子が悪くなった際には皆さんよろしくお願いしますね~。そういうことはホントは無い方がいいのだけれど…。

 

 血漿交換、無くなって嬉しいんだけど、次回から病院に行く楽しみが半分減ってしまうので残念、です(苦笑)。

「20年前の未来」

 時間が空いていてなおかつ頭の中がクリアになっている時を見計らい、部屋の中の蔵書を整理しています。その中で、実家から持ってきた雑誌の中で、今まで手付かずだったいわゆる「精神世界系」の書籍の整理に重い腰を上げました。当時は丁度1999年を挟んでのいわゆる「ノストラダムスの世紀末の大予言」だの、「マヤ暦の終末予言(2013年)」について騒がれた数年間分で、2019年の現在、とっくにその時代が過ぎてしまった「20年前の未来」から見ると、なんとまあ感慨深いものがあります。今振り返ると結構内容的には濃いものも多く混じっています。

 

 当時世間を騒がせた方々も、今はお亡くなりになったり、その教えも風化しているのもあり、また逆に当時、こんなこと言っていたんだ!と先見性にびっくりする文章あり、時が経って初めて真偽がはっきりするものだなあと、改めて読みふけったりしています。だから整理がなかなか進まない…笑。現在、ボリューム的には大体三分の1くらいには減ったかな。気持ち的にはすっきりしました。しかし最近は植物系の新たな興味の書類が着々と増えており、ま、一生追いかけっこですね。

 

 昨年スマホに変えて以来、勝手に入って来る内容の中に精神世界系の情報が何気にフツーに入ってきたりしている令和元年、ほんとに時代が変わったと思うことしきり。以前ならちょっとタブー視的な事もどんどんオープンになり、男女それ以外・日本と世界の壁もどんどん消えつつある認識が当たり前の「現在」が当時、どれだけ予測できたでしょうか?

 

 さらに興味深いことに、私が一昨年末に病気を患って丁度興味を持った(世間でも認知され始めた)「自律神経を整え穏やかに生きるメソッド」や「自分の心を見つめて身の回りを整えるメソッド」、「人生がうまく行くメソッド」と、当時一部の精神世界系で盛んに言われ始めていた(ただ私を含め、世間ではなかなか真の意味での理解が進まなかった)「本来の自分らしく生きよう」いう主張と共通点が多いことに気付きました。

 

 自分を大事に丁寧に生きると健康が保たれる。

 自分らしさを見つめると心も部屋も人生も整う。

 自分の本当にやりたいことをして生きるとお金や人に好かれる。

 

 以前ならどこかオカルトで乖離的だった精神世界と身体的・物質的幸福、つまり心と体、共に健やかに過ごす方法は共通だったということ。まさに実感としての心身合一や神人合一のことなんですが、それが「20年前の未来」である「現在」、ごくごくフツーの社会の認識になって来たのは、とてもすごいことだと私は感じています。

 

 何?今頃そんなこと気づいたの?という人もいるかもしれないけど…。

 

 病気になったことをきっかけに、「あなたはオレンジ、私は赤。みんな違っていていい。我慢しない!私は私を生きる!!」と吹っ切れた私は、明るい色の洋服を買い、身の回りにお気に入りを取り入れ、古すぎるおんぼろを少しずつ整理し直す様になりました。

 とにかく自分の気持ちに我慢しない。

 といっても単なる爆買いではなく、決して贅沢ではないけど「良いなと感じる」(この感性を磨くのが大事!)ものを取り入れ、気持ちを明るく保つよう心掛けています。

 家族の中には「お金がないのに…」と嫌味を言うものもいますが、も~気にしない!そういう人ほど、自分を変えずに周りのせいにして周りを変えたがる人。そう気づいてから、気持ちがとても楽になりました。こんな人はほっといて、「あなたは自分さえ変えられないのに、周りが変わるわけないでしょ、自分で自分を変えられるんですよ、私は。いーでしょー」と内心あかんべーしながら、自分は輝くんだ!とせっせせっせ日々努めています。

 だって、よーく聞いてみると、それって道理からではなく単なるわがままじゃない!ってことのまあ多いこと多いこと。つまらない愚痴や悪口や苦情を聞いてへこんだり怒ったりするのはもうばかばかしいし、病気でリミットされた時間がもったいないし、第一、自律神経に良くない。イライラした感情は病気にも悪影響甚大であることも医学で証明される時代になりました。サッサと耳をふさいでその場の悪い波動から逃げるが勝ち!!

 

 と、いう訳で、「本来の自分らしく」をモットーに生きてます。

 

 「私は私を生きる」体験をして、学んで、学び続けること。だって、それこそが、人間の「生きる意味」。 病気になって、それに気づき、本当に良かったと思っている私です。

 

 時代が20年余りかかって、1周回って(某番組のタイトルみたいだけど)、私を含めて、ヒトは「本来の自分らしく生きる」螺旋階段を一段、上がることが出来ているのでしょうか…?きっと、上がれていることを私は期待したい。

 

 盲目のバイオリンシンガー、増田太郎さんの「毎日が歌ってる」の歌詞より。

 

 ♪(前略)…螺旋階段を上るように これからも歩き続けるさ…(中略)

 あの頃より確かに僕らの、毎日が歌ってる…♪

 

 ではまた。

「予防接種に思うこと。」

 今年も、インフルの本格的な季節が来ます。その前に先日、予防接種をまた「あねご先生(と、私はひそかに呼んでいる)」の所で年に一度のあいさつがてら受けてきました。

 

 自己免疫疾患であるSLE(全身性エリテマトーデス)のワタクシにとって、風邪やインフルは罹っては困る病気です。SLEの症状が出ないように、常に免疫力をわざと下げざるをえないのですから。つまり、たわいのないウイルスでも罹れば重症化し易いということなのです。ただでさえちょっとの熱に弱い私なので、戦々恐々です。

 

 世間では、予防接種についての議論が起こっていますが、今日はそのことについて思うことを。

 

 

 自然派を自認する方々の間では、予防接種を受けないことがセオリーになっているようです。一つ目は、自己免疫を高めれば罹らないという理論、二つ目はそもそも効果が疑わしく、むしろ副作用の害の方が大きいとの説、三つ目は予防接種ワクチンには水銀が含まれている事での重金属汚染を避けたいが為、というのが主な理由らしいです。何よりも、「昔はそんなものがなかったから」という漠然とした不安が自然派を自認する方にとって許しがたいものなのでしょう。

 

 一方で、上記のような理由で各種の予防接種を受ける人が減ってしまったヨーロッパ圏で、はしかの患者数が増えているという話も聞いています。とある保育園では、予防接種を受けなかった子の間ではしかが流行ってしまい、予防接種をまだ受けられない年齢の子が罹って重症化した親が裁判を起こすということが起こっているようです。中には、予防接種をしていない子の保育園の入園を拒否するところも出てきています。

 

 日本では、風疹ワクチンの接種について、今妊娠している方と、子供に風疹ワクチンを打たない主義の方との間でのバトルが静かに勃発しているとか…。

 

 罹っては困る人と、予防接種という異物を恐れる人との静かな攻防。

 

 

 昔、私が参加していたとあるプロジェクト(実際にはそれらしい活動は出来なかったけど…。)のテーマを思い出します。

 

 Between Eco & Ego 「エコとエゴのはざまで」

 

 エコは時によりエゴに変わります。人と人の間に「隔離感」という壁を作ってしまうのです。

 

 

 予防接種にはメリットデメリットが勿論あります。

 

 メリットとしては、病気にかからない、もしくはかかりにくいこと、そしてキャリアとして病気を拡げないこと。

 デメリットとしては、弱毒であっても逆にその病気になる可能性、効果がない可能性、重金属等添加物の蓄積による二次被害(ガンや免疫疾患やうつの元凶の一つという説より)の可能性。

 

 どちらを選ぶか、未来への読み解くヒントは、「個人として見るか、人類全体として見るか」だと私は思います。

 

 人類全体としてみる時、歴史を紐解くと予防接種は人々の切なる願いの中で生み出されてきたことが分かります。近年、致死率の高い病気の大流行は起きにくく(むろん、ゼロではない)なっています。しかし、ほんの100年前は、はしかやインフルはもちろん、肺結核天然痘日本脳炎といった現在ではワクチンで防げる病気が蔓延し、死者も多かった。現在それらが減ったのはワクチン接種はもちろん、衛生状態の向上もあるし、生活の変化もあると思う。しかし、天然痘の様に撲滅宣言が出せるまでに至った経緯としては、地球規模でのワクチン接種に取り組んだ並々ならぬ先人たちの努力の成果があったことは見逃せない事実であると思う。はしかなどは折角一時期患者数が減ったのに、ある意味…こんなことを言ってはかなりのご批判を受けることを承知で…「個人的な心情」で接種率が下がってしまったばかりに地球規模での患者数が増加してしまっているのはとても残念なことだと思う。そう考える時、ある意味、予防接種を受けない(体質的に受けられない人は除いて)選択をする方々は、エコロジストではあるがエゴイストでもあると私は感じてしまう。

 

 もっともその要因が、はしかの予防接種免疫のある親から生まれた子供は逆に小さいころからはしかになりやすく、予防接種をさらに小さいころから受けなければならないパラドックスに陥っているせいだ、という説もあるようですが。

 

 

 いろんな説が飛び交っている中で、じゃあ、原点に戻って考えて未来はどうあるべきか?

 

 

 そもそも、インフルなどの変異が激しいウィルスや子宮頸がんワクチンの癌予防との因果関係は別として、それ以外のワクチン接種は天然痘の様に撲滅できるくらいまで患者数をまず減らすことが人類共通のやるべきことなのでは?と思うのです。そうすればおのずといつの日か結果としてワクチンが必要なくなる世界になる。きっと。

 そこに至るまで、副作用としての後遺症に苦しむ方たちも中には出て来るけど、もうそこは「運命(そもそも、「運命的」交通事故死より「故意的」自殺者が多いという現状も問題だが)」としか言いようがない。もちろん悲しい事ではあるし、出ては欲しくはないし、減らすよう改善を続ける努力をしたうえで。でも、その病気自体で人類全体が苦しむか、自分が苦しむかといったら私だったら自己犠牲を取りたいと思う。それは人として地球上に生まれたどんな人も負うべき覚悟と責任の一つとして。きっとそのこと自体にも何か学ぶべきことがあると思うから。自分だけ良ければいいという選択が、全体を滅ぼすきっかけにならないことを切に祈ります。自分という一本の木を守ることも大事ですが、森全体という環境を守らなければ結局中央にある一本の木を守れない。未来を語る上では、とても大事だと思います。角を矯めて牛を殺す、にならない為にも。

 

 また、先のブログで紹介したSLEの本の中で、自己免疫疾患と重金属・ワクチン中の水銀との因果関係に触れられていまして、確かに無関係ではないとは思うのですが、ただ、日常的に摂取する重金属・水銀の量と一生に一度もしくは年に一度のワクチン接種で体内に取り込まれる量で秤にかけた時、どちらが多いか?しかも流行性で致死率の高い病気のリスクと、確実罹患率が低い自己免疫疾患になるリスクのどちらを取るか?といったら、やはり現状では確実罹患性が高く致死率の高い流行性の病気を防ぐ方がはるかに人類全体にとってはプラスなのでは?と思います。

 

 断っておきますが、多数が幸せなら、少数の犠牲は致し方ない、というわけではありません。要は、その少数の方たちも尊重しつつ、常に最善の道を未来に向かって模索し続ける努力を人類は必死に行い続けることが最も重要だと思います。

 

 

 もっともこれらと別次元の話として、予防接種というビジネスチャンスを推し進める製薬会社と影の政府との癒着と巨大な金の流れについては、ここではほっときます。悪は悪によって滅ぶし、私たちは泥の中から開く蓮の花でいつづけるならば、何も恐れることはないと思うから。

 

 

 とにかく、ワクチン接種賛否両論をうんぬんし続けるより、私は病気撲滅に邁進してきた先人たちの知恵と勇気を尊重したい。その祈りと願いによって生み出されて来たワクチン接種という方法を信じたい。人間を信じたい

 ただそれだけなんです。

 

 反対派の人にとっては「お人好し」「悪の片棒担ぎ」と言われそうだけど…。

 

 

 インフルの予防接種から人類規模の話まで発展してしまいました。でも、声高に正義を叫ぶより、知識を拡げ、人類全体の視点で見た時、未来のために今自分がするべきことは?と常に問い続けることが、しいては人類を救う道しるべになるのだと思います。