あひるのひとりごと

国指定の難病であるSLE(全身性エリテマトーデス)患者だけど、精一杯生きてます。大好きな植物さんのこと、ルーマニアの伝統楽器パンフルートのこと、夢の実現への足取りや、そのほか想うこと…書いています。

「自粛の日々は忍耐の日々?」

 皆さんこんにちは。

 

 静かな静かなゴールデンウィークが終わりました。早速上空には自衛隊?米軍?基地の演習飛行の爆音が響き、山にはたくさんの土砂運搬のダンプが上がってきてせっせこせっせこと谷を埋めています。この二つはコロナなどどこ吹く風なのがどうもシャクに障りますが、操縦者や運転手には罪はなく、「そういったことを必要としている社会そのもののシステム」に腹が立ちます。

 

 さて、世界中がステイホームを声高に叫び、その一方で経済活動を再開させろと暴動が起きています。この風潮、雰囲気はまさしく戦前の米騒動や戦中の「ぜいたくは敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」とそっくりで、いかんせん「自粛しない奴は敵だ」「勝った暁には贅沢三昧な日々を再び…」という人間の浅ましさが感じられるのは私だけでしょうか?

 

 皆さんはどうですか?やはり「自粛の日々は忍耐の日々」ですか?

 

 「おうち時間を楽しもう♪」も、断捨離も、やがて飽きが来ます。テレビのVTR特集もネタが切れるでしょうし、あらゆるお取り寄せグルメ通販も金銭的に余裕が減ってくれば続かなくなる。イベント三昧や飲み屋のハシゴが懐かしい。「元のような生活がしたいなあ」というストレスは確実にたまりますよね。それだけを前提に考えると、忍耐の日々ということになるでしょう。

 

 しかし、障碍者の立場の方々の日々はある意味、いやもっと苛酷に見える生活が「日常」です。でもそれを「忍耐の日々」とは言わない。福島の原発被害の方たちの一時の状態も近いとも言えるでしょう。外出もままならず、他人と接する機会が少ない。子供たちが外で自由に遊ぶことすら出来なかった。でもそんな日々を両者の方々はちゃんと乗り越えて生活している。

 

 全人類の方々がそれを共感できるチャンスを、このコロナさんがくれたと言っても過言ではないのではないでしょうか。

 

 「忍耐の日々」ととらえるからこそ、いつか欲望が暴走し歯止めが利かなくなる。ちょっと規制を緩めれば油断して、また感染爆発の繰り返しになるパターンになる気が…。

 

 でも。そもそも「収束」への期待って何でしょう?コロナさんはどうやら水ぼうそうと同じように、人類の7割が常に感染し抗体を持っている状態にならないと収まりが付かないように私は思うのですが。水ぼうそうさんは一度症状が治まっても神経細胞の端っこに住み着き(半共生?寄生?)、免疫力が落ちて来ると「帯状疱疹」を引き起こすウイルスです。ということは、完全な収束まで早くとも3、4年かかるんじゃないでしょうか。しかもそれは頻繁な変化を起こさない、という条件付きでの話です。だとしたら、「あと2週間頑張ってください」「あと少しの辛抱です」というフレーズ自体が虚しい。いっそのこと「収束まであと数年はかかる」としっかり腹をくくる方が、変に期待をその度に裏切られるより落胆感は少ないと思うのですがどうでしょうか?

 

 

 では、収束したら「のど元過ぎれば熱さ忘れる」この世界のままで本当にいいのでしょうか?

 

 私は思います。「それでは地球環境と全人類の100年後はない」と。

 

 ここでは医療関係で頑張っていらっしゃる方々や、真に希望をつなごうとしている方々の話は抜きにして言いますね。

 

 

「ある意味、コロナ旋風が収束せず、100年の後までも続いていて欲しい!」

 

 

 …(ハッキリ言って暴言だ!)。

 

 人類にとっては悪魔ですね。私の考えって。自然界にとっては福音ですが。いや、「本来の人類の自然な生態」にとっては理に適ったことだと思うのですが。

 

 

 じゃあ、「コロナの前の世界が、本当に人類にとっていい社会であったのか??」

 

 

 高度経済成長から始まった満員電車の風景。感覚がマヒしていたからわからなかっただけで、それが正しかったのですか?今そのストレスから解放されてホッとしていませんか?

 

 嫌な上司、つまらない授業、いじめ。テレワークやオンライン授業で解放されてホッとしていませんか?

 

 余りにも密集した住宅群、社会的距離以前に不自然と感じないのですか?

 

 外国人労働者に頼らなければやっていけない農業、建築業、零細加工業。それで将来も本当にいいのですか?

 

 為替レートゆえ低価格。それをいいことに依存してきた、遠くから運んでこなければならないマスク、医療用ガウン、食料品。それでよかったのですか?

 

 観光客に頼らなければならない地域経済、それでいいのですか?

 

 暇だからパチンコ、そんなグータラで人生ほんとにいいのですか??それに依存しなければストレス発散できない社会、そんな世界に本当に戻りたいのですか?

 

 

 私は、コロナが収束「しないこと」で、今まで目をそむけてきた問題に真に取り組み、世界が良い方に変わっていって欲しいのです。

 

 

 経済が停滞したことで原油が余り、グレタさんがケンカ腰にならなくても、二酸化炭素の排出があっという間に減りました。ヒマラヤが見え、ベニスの運河が澄んだ。これは良い事ですか?悪い事ですか?

 

 昔、社会の先生に「人間の身体の周りには、それ以上赤の他人が近づくと圧迫感などのストレスを感じ始める距離がある。それは大体半径1メートル。」と聞いた記憶があります。コロナ感染爆発を避けるために社会的距離を保った結果、真のストレスフリーが実現できる、そのチャンスではないですか?

 

 東日本大震災の時、計画停電原発なしでも乗り切りました。人との接触8割減でも経済が回るようにすれば、逆に今までそれだけ無駄な経済活動をしていたことに気付く。今までよりもっと通勤時間に人生を割くことなく、地元で勤め、生活に密着したものを地元で作り、回す。こころは地球規模のグローバルな視点で、されど、人や物の移動マイレージは数値が少ないに限ります。自分の健康維持のためには関心が高く、遠くから運ばれるアーモンドミルクやココナツを食べてビーガンだ動物愛護だと自慢してるけど、地球の健康維持には無関心、それでいいのですか?

 

 最近誠しなやかに流れている「コロナウィルスからの手紙」もそうですが、確かにコロナの症状を地球の状態に置き換えるという発想が人類には必要だと思う。そう考えれば、「自粛は忍耐、人類の苦しみ」という発想自体が消えて、むしろ「今まで自粛すべき人間生活をなぜ私たちはしないで来たのか?」ということに行きつく。「収束」をすることを期待し、我が世の春を再びという「人間の心に巣食う欲望」に気付く。むしろ今までの社会が「異常」であったという事実、そしてこれから真の人間らしい生態の生活が営めるチャンスを与えられたという想いを今度こそ全人類が共有出来たらなと私は切に願います。

 

 流行でなく、文化そのものを変える。「コロナ自粛の日々は人間らしい生活とは何かを真剣に考え、学び、変えるための日々だった」と後の世に言えるように。

 

 最後に。必死に命と向き合う医療関係者の皆さま、介護関係の皆さま、児童福祉関係の皆さま、障碍者関係の皆さま、安全保安員の皆さま、そのほか希望を必死につなごうとしている皆々様に熱いエールと光が届くことを祈って。

 

 いろいろ書きましたが…それでは、また。

 

 

 P・S

 ちなみに「コロナ」についての余談ですが。

 

 最近、昔読んだキリスト教の絵本のページをふと思い出しました。それはキリストさんがあらゆる悪を滅ぼすためのハルマゲドン(最終戦争)に、神の軍隊を率いて天から下って来る様子を描いたもので…。

 

 「そういえばキリストさんは地上の王たるべく『黄金の冠』を被っていたなぁ」と。

 

 

 そしてもひとつの気がかり、元号について。「令和」をバラバラにして読み解くと…?

 

「令」は「れい」と読み、アラビア数字の「0(ゼロ)」も日本語では「れい」と読みます。

さらにカタチを発展すると、アルファベットの「O(オー)」、すなわち「王」とも。

 

「和」は「わ」と読み、これまた「輪(わ)(リング)」ともとれる。

 

 

 ……?「なんのこっちゃ?」と言われるでしょうが。

 

 〈ウイキペディアより〉「コロナウイルスの名称」は、

 

ラテン語の【コロナ】及びギリシャ語の「王冠」または「光冠(丸い光の輪)」を意味する【コロネ】に由来する』

 

 そうです。…この一致、あなたはどう思われますか???