あひるのひとりごと

国指定の難病であるSLE(全身性エリテマトーデス)患者だけど、精一杯生きてます。大好きな植物さんのこと、ルーマニアの伝統楽器パンフルートのこと、夢の実現への足取りや、そのほか想うこと…書いています。

〈SLE体験談その9〉

〈SLE体験談その9〉

 皆さんこんにちは!
 舌癌で入院されていた堀ちえみさん、無事退院された様ですね。まだまだリハビリ等大変な日々が続くと思いますが、ひとまずはほっとしました。水泳の池江選手はなかなか苦しい日々を過ごされているようで、こちらは少し心配です。


 ちょっと間が空いてしまいましたが、体験談の続きを。

 退院予定の少し前、看護婦さんから「看護学校の生徒さんが実習に来るので、色々お話をしてくれませんか?」と言われ、またとない貴重な体験だと思いましたので快く引き受けました。

 やって来たのは病院実習が初めての1年生のかわいい生徒さん。5~6名くらいのグループ行動で、おまけに引率の先生も今年赴任してきて初めてこの病院に実習に来たという初尽くし(先生が先輩看護婦さんのてきぱきとした作業に生徒以上に関心していたので不思議に思ったらそういうことでした)。グループで洗髪やベットメイキングなどの日常業務の実際を見学&実習し、個々の時間は担当になった患者さんのお話を聞くというカリキュラムのようでした。

 私にも一人生徒さんが付いて、最初、お互いに何を話したらいいのかちょっとぎごちない時間もありましたが、次第に慣れ、私も明日来たらこんなことを話そう、こんなことを伝えておきたいなと楽しみの時間になりました。
 私がしたのは、とにもかくにも、看護婦さんにしていただいて嬉しかったこと、感謝していること…つまりはこの体験記で書いている様な事あれこれ、入院中に感じた事を、時には思わず泣きながら彼女に伝える事でした。
 クリスマスカードのこと、夜勤の看護婦さんのこと、地下の栄養科のこと。これから長い看護婦生活を歩むであろう彼女に、ありったけのエールを込めて、でも「もし自分に向いていないと思ったらその時は無理はしないで」と話しました。あと、彼女の記念すべき人生初血糖値測定、私の指先にしてもらいましたね。

 また、彼女からも看護学校での事を色々聞くことが出来ました。クラスメートみんなで、クリスマスカードを書いたこと、3年生以上の先輩たちは自分でどんどん各病院に出向いて実習を積むので、あまり学校にはいないこと…などなど。ドラマ「コードブルー」にあこがれていて、献血のマスコットキャラクターマークの献血ちゃんが好きだと言っていた彼女。調べてみたらどうやら卒業まで4年かかるようなので、今もまだ山ほどの学科カリキュラムと格闘しながら頑張っていることでしょう。病院の就職は地元を希望していたので、恐らく実習にもしまたこの病院に来たとき、たまたま会う以外はもう会うことはないでしょうが、明るい人柄を生かして、沢山の患者さんの灯となって欲しいものです。いや、看護学校に進んだという時点で、既に灯ですね。未来の日本を支える彼女たちの存在に希望をもらいました。どうかお元気で。

 看護実習が終わった次の日、私はおかげさまで退院することが出来ました。難病というリスクを背負った人生にはなりましたが、本当に学ぶべきものが多かった入院生活でした。今後また入院することになっても地域にこんな頼りがいのある病院があるのは本当に幸せな事です。内科入院病棟の看護婦さん、ありがとうございました。そして外来で今後ともよろしくお願いします。

 さて、次回以降は退院してからの病状の変化や、現在のことなどぼちぼち書いていく予定です。
 ではまた。

〈SLE体験談その8〉

〈SLE体験談その8〉

 先日の池江選手の白血病の公表に続き、タレントの堀ちえみさんの舌癌の公表・手術と、このところ有名人の闘病が話題になっていますが、特に堀さんのリウマチ(これも実は膠原病すなわち自己免疫疾患の一種です)と舌癌の同時罹患が気になります。
 手術後の投薬治療はどうなるんだろう…?
 一方では癌を叩くために免疫を強化しなくてはならないし(先の本庶先生の治療法ならば)、リウマチを鎮めるには免疫力を下げなくてはならない。現にリウマチの薬で免疫を抑制していたために、その副作用として口内炎ができやすく舌癌を見落としたのならば、最新の免疫療法は使えず抗がん剤放射線治療のみ??シロウト考えではありますが、私にとっては他人事では済まされないだけに人一倍今後の推移が気になります。
 ただお二人に共通して言えるのは、病気に気負けしない覚悟の強さと明るさ!見習いたいものです。

 さて、体験談の続き。

 入院中にお世話になるのは看護婦さんばかりではありません。絶対的に欠かせないものの一つに「食事」があります。それを日々支えるのが管理栄養士さんと調理スタッフの方々です。
 食事の度に献立カードが付くのですが、それには病室と個人名、カロリーや塩分・タンパク質の量、ご飯の状態と量、アレルギー等の為の禁忌食品、固形食か流動食か、糖尿病食か普通食か…などなどなど事細かに書かれており、病気用のカルテとは別にもう一つのカルテともいうべきものでした。もちろん、「本当のもう一つのカルテ」は担当医の事細かな指示も書かれているようで、私も入院当初は腎症の為タンパク質制限があったようですが、献立カードには普通食と書かれていたため気付きませんでした。
 それに加えて、朝食がパン食か和食か選ぶことが出来、普通食の方は数日前に主食がある程度選べるようになっていたり、私の様に白飯をお粥に変えてもらうことなどが出来るなど、個人的な好みもある程度反映出来ました。その上で食欲が出るようにメニューの色どりもちゃんと配慮され、毎食の様に酢のものが添えられていたり、海藻や豆がふんだんに使われていたり、普段の食事作りではここまできちんとできないよ~と思わずため息が出るようなバランス設計で、毎食感謝しながら完食していました。
 しかも、クリスマスはもちろん、正月三が日や七草など、行事がある時はそれにちなんだメニューが出され、小さなメッセージカードが付いて来るのです。前回入院時に出産お祝い膳が出た記憶がありましたが、四季のイベントごとにも出されていたのにびっくりでした。これももっとも、大学の附属病院ということもあっての事でしょうが、この食事を食べるためならまた入院してもいいくらい!(←おいおい…)です。

 その、メッセージカードの送り主である「栄養科」の方々の調理しているところはどこだろう…?
 この疑問を、車椅子を押してもらって病棟の外の景色を見せてもらった時に看護婦さんに聞いてみたところ、「地下一階にあるんですよ」と教えてくれました。毎回500食(確かそう言っていたと思う)余りもの数を作っているとか。

 ひえ~っ!500食!!
 外来でごった返す一階のその下で、日々黙々と調理をして下さっている方々がいる…。

 一部看護婦さんやドクターの分があるとしても、単純に500食×3食の日々の献立を立てている管理栄養士さん。一食の献立だけでアップアップしている落第主婦にとっては、栄養士さんの頭脳の一部でも分けて欲しい(笑)。
 そしてその一つ一つを間違いがないように気を使い、作っている調理スタッフの方々。仮に取り違えでもしてアレルギー反応をおこしたりでもしたら、命にかかわることだってあり得るのですから。仕事始めは恐らく午前3時ごろでしょうか。その時間になると搬入のトラックらしき物音がするのを私は、毎晩のように聞いていました(睡眠障害で目が冴えてたため)。搬入即調理ではないでしょうが、とにかく、朝早い仕事であるのは間違いありません。

 本当に毎食「ありがたい」の一言でした。
 それ以来、献立のリクエストカードの裏に、ちょっとしたメッセージを何回か書いて返しました。直接、皆さんに届いたかわかりませんが、少しでも気持ちが伝わればいいな、と思って。退院前のリクエストカードには「ありがとうございました」と書きました。ただ、年越しそばとカレー(退院日の昼食)を食べはぐったのが心残り(笑)です。

 そして。

 後日知りましたが、地下一階ではもう一つ、大事な部屋がありました。
 「霊安室」、です。

 安らぎを作り出す人と、安らぎになられた方のいる場所。

 天使と安らぎの国は、足の下にも…あるのだということ。それを知った入院生活。

 それが、今も定期検診に行くたびに想う、私のとって病院の「地下一階」の姿です。

 体験談その9に続きます。

〈SLE体験談その7〉

〈SLE体験談その7〉

 節分過ぎて立春となりました。皆さんの家では鬼さん出て行きました?うちではなぜか私が鬼役で、鬼と一緒に煩悩も逃げて行くように追い出しました。ただ、私にとってSLEは個性ではあっても鬼ではないんで…。
 さてさて、入院中の話も残りわずか。今日は看護婦さんのお話。


 入院中の身の回りのお世話は当然ながら看護婦さんが担うわけですが、前回出産時にお世話になった時に比べ、今回の入院ではその仕事ぶりを身近に目の当たりにして、本当に勉強させてもらいました。夜の看護婦さんもそうですが、昼間の看護婦さんも本当に…凄い。

 朝の検温に始まり、血圧測定・血糖値の計測・血中の酸素濃度測定、ホットタオルの支給に朝食の配膳・片付け、歯磨き用のコップに水を入れてくれたり、氷枕を取り替えたり、先にも書いたトイレや入浴室の行き帰りの付き添い、昼食時の配膳・片付け、昼間の測定。たまにベットの寝具の交換を二人掛かりでワーッとあっという間にこなす様子や、入浴出来ない時の洗髪の手早さなど、一見看護婦の仕事の範疇外とおぼしきことも一流ホテルのベットメイキングや美容院並みだと、いちいち感心していました。

 そして何よりも「命を預かる仕事」ですから、計測で異常が出ればそのデータは看護婦を通じてすぐ担当医に通知されます。一度、入浴した直後の検温だったため、翌朝の巡回時に「昨日の検温高かったけど、何かありましたか?」と担当医の先生に聞かれたことがありました。それで、「あ、そうか、看護婦さんの目は担当医の先生のもう一つの目なんだなあ」と思ったものです。

 そんな風に、常に患者さんの様子に神経を研ぎ澄ましつつ、いつも笑顔を忘れず、なおかついろんなことに動じない図太さというか明るさというか、何事も楽しんじゃえという姿勢というか…。ある時、同室の向かいのベットに少し痴呆のある方とおぼしき患者さんが入院してきて、なぜここにいて点滴やら繋がれているのか理解できずに、両手にミトンの様な誤動作防止用のグローブをしているにもかかわらず、点滴のチューブを全部引っこ抜いてしまいました。辺りはもちろん水浸しの血だらけ。そんなときも看護婦さんたちは数人がかりで「あ~ら○○さん。点滴抜いちゃだめでしょ~」とまあ、何とも明るい声で布団やらシーツやら交換をさっさとこなし、「その手袋はね~、はずせないのよ、ちょっとがまんしてね」と何回も説得していました。この「点滴引っこ抜き」は、のち何度か起こり、その度に後始末を軽々とこなす姿は、本当に凄いと感心しっぱなしでした。もっとも、汚物を処理するのが日常茶飯事の看護婦さんにとっては、これくらい序の口な事だということでしょうが、凡人なら、「もう、いい加減にして!」と怒りたくもなるところ。…これから直面するであろう介護の心構えを学んだ気がします。

 でも何といっても一番の看護婦さんの仕事は、病気や怪我で入院している患者さんの「不安」を取り除くことの一言に尽きるのではないでしょうか。苦痛の不安はもちろん、一人病院で闘病しなければならない不安、未来への不安。それらを少なくとも、ここにいる僅かな期間だけでも、なるたけ取り除き、安らかに過ごしてもらいたい。クリスマスの時の事でも少し触れましたが、看護学校の時からそれを一貫して学び、身に着け、実践していく看護婦という仕事を選んだ人たちに、心からの感謝とエールを送りたいと思います。

 あぁ、どうしても長文になっちゃいますね。今日はこの辺で。ではまた~。

〈SLE体験談その6〉

〈SLE体験談その6〉

 あっという間に大寒も過ぎて、退院してから1年が経ちました。皆さん、風邪ひいていませんか~?私は風邪ひき厳禁なので、毎日戦々恐々としています。

 体験談の続きを。
 熱も下がり体が楽になって来ると、やはり少しずつでも歩く練習をして筋力を付けなくちゃ!と思いました。なんせ1月の初めは満足に立つことも出来ないくらい足の筋肉はガリガリの状態で、一人ではトイレにさえ行けません。行き帰り運転手(もちろん看護婦さんのこと)付き車椅子なんて贅沢!などと自慢してる場合…ではありませんでした(笑)。

 そこでまずは、ベットの柵につかまって立つところから開始。最初はほんの数分経つと限界で、ベットにゴロ~ンしていましたが、やがてソロソロとベットの柵伝いにそばの窓際に行き、つかまりながらゆっくり屈伸したり片足ずつ上げたり。膝の上げ下げが何と何と重いこと!!「自分の足を上げるのに、こんなに筋力要るんだっけ!?」と驚きながら、徐々に時間を伸ばしていきました。万が一にも転倒しては一大事(看護婦さんらの責任問題にもなるため)なので、それだけは十分注意を払いながら筋力トレーニングをコツコツ続けていき、やがて看護婦さんに手を取って支えられながら「シャル・ウイ・ダンス♪」状態でトイレに行けるようになりました。

 その後、歩行器を使いましたが、程なく卒業(使いづらかった)。歯磨きするのにゆっくりと洗面所に歩きつつ廊下の手すりで屈伸運動、廊下の翌日の献立を見ながら(笑)片足上げストレッチなど、体調をみながら、徐々に体力を付けて行きました。年配の方などはリハ室まで行って歩行訓練等をしていましたが、私の場合は自力で歩行できるようになっていったので、カリキュラムは組まれなかったようです。

 一日のスケジュールは、午前中は比較的眠気があったりだるさが強いのでゆっくりして、昼食後から夕食までの間で入浴などの時間を除いた数時間が主に筋力トレーニングタイム。やがて同じ階の廊下を行ったり来たり出来るようになり、看護婦さんに確認してもらって院内フリー(病院内の移動は自由)の状態だと知るや否や、今度は近くの階段での歩行訓練を始めました。まだ少しガクガクする膝とすぐ息切れする呼吸でしたが、ゆっくりと屋上階まで行って外の空気を吸い込んだ時は嬉しくてほっとしたものでした。屋上階の小さなスロープを行ったり来たり、小さな段差に足をかけてストレッチしたり、真冬でしたが外に出て直射日光に当たらないように気を付けながら、小さな階段で踏み台昇降したりいろいろしました。

 また外来も終わり人気が少なくなった時間を見計らって、下の院内コンビニにもよっこらよっこら階段を上り下りしながら、足しげく通いました。外の世界の情報に生で唯一触れられる場所で、ひたすら立ち読みで情報収集したり、商品の陳列を見ながら流行を感じたり、ありがたかったです。その時エンドレスで流れていたユーミンの「アニバーサリー」が、なぜか強く印象に残っています。

 そんなこんなで、筋肉の完全な回復にはまだ至らないものの日常の歩行には差し支えないくらいになったころ、薬と症状の安定もあり、めでたく退院の日取りが決まりました。

 その前後のお話はまた後日。ではまた。

〈SLE体験談その5〉

〈SLE体験談その5〉

 正月気分もすっかり抜けて、普通の日々に戻りました。
 でも思うのは、一昨年前の年末年始に見た光景のこと。今年も「ドクターヘリの離着陸がひっきりなし」「病院前で救急車が行列()」という状態だったのでしょうか…。年初め、循環器の先生が急患対応で出払ってしまい、外来の診察がストップして患者さんが待合にわんさか…という場面もありましたっけ。毎年の事とは思いますが、ドクターとナースの皆さま、年末年始お疲れ様でした!


 さて、入院生活で一番最初に心に残ったもの。それは内科病棟の夜勤看護婦さんたちの働く「音」でした。

 私がいた病室はドアが解放で、出てすぐにトイレと簡易洗浄機(洗濯機みたいなものだと思う)があり、特に夜はその音が大きく響いていました。患者さんの各種装置に付けられたアラームや、呼び出しブザーの音も、ひっきりなしに聞こえてきます。熱さましと氷枕を使ってぼんやりしている頭でも、なかなか寝付けません。でも、不思議と「うるさい!」とは思いませんでした。
 恐らくそれは、その音の中に看護婦さんの履いているナースサンダルの音が混じっていたから。
 パタパタパタパタ…。パタパタパタパタ…。パタパタパタパタ…。
 夜間ずーっとずーっと小走りのまま、あちこちの病室を行ったり来たりしているその息使いを感じながら、仕事とはいえ、すごいなあ、すごいなあ、と夜になるたび感激していました。
 夜勤は人数がぐっと減るので、一人当たりの仕事量はとてつもなく多いはずです。洗浄機を回し、患者さんの容態に気を研ぎ澄ませ、ブザーが鳴れば「どうしましたか?」と優しく声を掛ける、その看護婦さんたちのおかげで、入院生活では一度も不安や孤独を感じたことはありませんでした。

 また、よく巷では「病院で霊体験を…」なんて話もあり、実際私も一度くらいはあるのかな?と思いましたがそれもなく、入院中に2名ほどの方が同じ階で亡くなられたようですが、静寂の事実のうちに時は過ぎて行きました。廊下で家族に携帯で伝えている声や、危篤で駆け付けた人々の話し声、それにあくまで冷静に対処していた夜勤看護婦さんの会話を、ベットに横たわりながら敏感になった聴覚で聞いていると、怖いという感覚よりもなぜか教会にいるような神聖な心持ちになったことを思い出します。
 ちなみに、同じ階でありながら直接行き来が出来ない別棟の病室は産婦人科病棟で、実は息子を産むときにお世話になったところ。まさしく生と死が隣り合わせの日常があるところ、それが病院のリアルなのだということをはっきりと感じた夜の病棟でした。

その6に続きます。

〈SLE体験談その4〉

〈SLE体験談その4〉

皆さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
昨年、良い事があった人も、あまり喜ばしいことがなかったと感じている人も、とにもかくにも、仕切り直し。リセットして、気持ちの切り替えをする、年に一度のチャンスですね。
皆さんにとって実り多き一年でありますように!
 
さて、体験談の続きを。
 
年をまたいだので一昨年前のことになってしまいますが、12月25日からかの有名なステロイド(副腎皮質ホルモン)をメインによる投薬治療が始まりました。重症の方は多量に投与する「パルス療法」と呼ばれる方法をとったりするのですが、幸い入院してから腎炎の数値が落ち着いていたので、私の場合は内服による中程度の量からの開始でした。
SLEという病気にとって、ステロイドは欠くことのできない薬です。1950年代に一般化するまでは、合併症で5年生存率がとても低かったそうですが、現在では90%以上の患者さんの長期緩解(症状が落ち着いている状態)が得られるようになったとのこと。アトピーなどでは何かと目の敵にされる薬ではありますが、私のとってはありがたい薬です。ただし人によっては劇的な副作用…血圧の変化や血糖値の上昇、精神障害(うつ)などいろいろ…が起こることがあるので、入院して様子を見ながらの投与開始が必要なのです。

 投与が始まってからは、日に日に症状が改善していきました。まず熱が下がり、関節の痛みが和らいできました。だるさも徐々に軽くなり、寝たきりだったのが体を起こせるように。食事もお粥だったのが、普通の白飯でも食べられそうだと思えて来たので、正月元旦の食事から戻してもらいました。おかげで、大みそかの天ぷらそばは食べはぐった(うどんと野菜の煮物だった…同室の人の話を聞いて「一日早くすればよかった!」と後悔)けど、ささやかな正月料理は頂くことが出来ました。むしろ、家族はこれだけ手をかけた料理は今頃食べてないかも?と内心申し訳ない気持ちでありがたく完食しました。
 心配だった副作用ですが、幸い血糖値・血圧とも変化はなく、精神障害等も出なかったのでほっとしました。多少、ムーンフェイス(顔面が満月の様に丸くむくんでしまうステロイド特有の症状)になっていたようですが、元々が丸顔だし、マスク常時着用なので、そんなに自覚はありませんでした(笑)。また、睡眠障害は出たのですが「うなされて眠れなくつらい」のではなく、「目が冴えて眠れな~い!!」状態でしたので、逆に今までの事・これからの事・いろんなことに考えを巡らす絶好のチャンスとしてその時間を利用していました。

 体調が良くなるにつれ、周りの状況や人の動きなどにも興味が出てきました。入院すると聴覚や味覚・嗅覚に敏感になると言いますが、本能的になるのでしょうね。

入院生活のあれこれについては、また次回以降に。
それでは…。

〈SLE体験談その3〉

〈SLE体験談その3〉

皆さんこんにちは。あっという間に今年もクリスマスが過ぎ、もうすぐお正月ですね。
今回は、SLEそのものの体験談というより、病院に入院して感じたことについて。


体験談その2の終わり、つまり12月25日からさかのぼること2日前、夜の出来事でした。まだ治療が始まる前で、大部屋から出るのは車椅子を看護婦さんに押してもらっていくトイレの時ぐらいだった頃です。廊下の向こうの方から何やら明るい歌声が聞こえてきました。うすらぼんやりとした頭で「おや…?」と耳を澄ましていると、どうやらクリスマスソングのようです。その歌声がだんだん近づいてくるにつれて、はっきりと歌詞が聞こえてきました。
あわてんぼうのサンタクロース、クリスマス前にやって来た♪…」。言わずと知れたあの曲です。
やがて病室に「やって来た」のは、いわゆるサンタの衣装(…してたと思う)を着た二人組(…だったと思う)の若い女の子たち。私の元にもやって来て、プレゼントを渡してくれました。それは、可愛いサンタのイラストと『メリークリスマス!このひとときが、あなたの安らぎになりますように。』と手書きされたメッセージのクリスマスカード。裏には『看護学部 学生一同』とあり、彼女たちはつまり「白衣の天使の卵」だったのでした。
その時、私は彼女たちに何と言ったかな…?「ありがとうね」ぐらいしか言えなかったと思います。クリスマスソングだと気付いたあたりから、もう涙腺ウルウル状態だったと思うから。

病室というのは、とても閉鎖的な特殊な空間です。そして変化が少ない。もちろん、昔に比べたら、テレビはあるし外の状況は知ることは出来ますが、自分はそれから疎外しているという感覚はひょっとしたら、刑務所にいる方などと同等かもしれません。そんな中で、「あぁ、自分にもサンタさんが来た」というささやかな一瞬の喜びは、とてもとても、とても大きいものです。
私は今までどうも、御馳走たらふく食べてケーキ食べてプレゼントを交換してはいおしまい!というスタイルに食傷気味で、子供もそんなに興味がない方だし…とクリスマスに消極的でした。中東でのキリストさんの誕生を祝う日が北欧の冬至の祭りとごっちゃになって、ツリーを飾り真っ赤な衣装のサンタさんがプレゼントをくれる日になり、きっとキリストさんが今見たらびっくりするだろうけど、何となく「きっといいことがあるかも」という希望の火を心にともしてくれる、そんなイベントがあるのは、とてもいい事だと実感した去年のクリスマスでした。

今年も、彼女たちはきっと病室にひとときの安らぎを届けに来たのでしょうね。もちろん、大学病院という大きいところだからできることではありますが、これからきっと毎年、クリスマスが来るたびに私は、彼女たちのことを思い出すと思います。実は退院前に、彼女たちに再び会うことになったのですが…その話はまた、後日。

ではまた。