あひるのひとりごと

国指定の難病であるSLE(全身性エリテマトーデス)患者だけど、精一杯生きてます。大好きな植物さんのこと、ルーマニアの伝統楽器パンフルートのこと、夢の実現への足取りや、そのほか想うこと…書いています。

〈SLE体験談 番外編〉7年目の真実(多分)

 

皆さんこんにちは。


SLEに罹患して今年は7年目に入りました。早いものです。


現在、ステロイドは2日に一回、1ミリを服用していますが、 ゼロの可能性が現実を帯びてきました。
主治医曰く「ゼロに出来るのは100人に5人位ですよ。 ベンリスタ(生物学製剤)との相性が良かったんですね~」 とのこと。有難いことです。ステロイドがゼロに出来れば、 それに付随するランソプラゾール(胃薬)とリカルボン( 骨粗鬆症薬)も止めることが出来ます。薬が減ることは、 身体への負担を減ることですから、 寛解状態を維持出来るギリギリラインまで、 極力少なく出来たらいいなと思います。

 


さて、ひょんなきっかけで、 私が以前書いた体験談のミスが発覚しました。大変申し訳ない「 7年目の真実(多分)」です。


発端は、子宮腺筋症の状態を見るために、 紹介状を手にこちらの病院でMRIの造影をしたことでした。


天井に雲が浮かぶ青空が描かれた部屋のベットで横になり、 ヘッドギアを装着しクラッシックを聴きながら機械に入っていくと (さながら自分が棺桶に入れられたみたいで、つい、 斎場の焼場を連想してしまった…)、 回りからはゲームセンターのインベーターゲームさながらの電子音 が響き渡り、交戦状態が30分程続いたあと、機械から無事生還。


昨年、父が手術前にMRIを造影しており、 付き添いで部屋の中の様子を見ていたので、 こんな感じだというのは知っていましたが、 実際に自分が体験してなかなかに面白い体験だなと感じました。


ふと、あれ?私、MRIってこれが初めてのはずだよね?
でも確か、SLE体験談であねご先生の所で「MRI」 をやったって書いていたような気が…?だとすると、 2回目になるのかな?


早速、昔のブログを振り返って調べてみました。するとやはり「 MRI」をしたと書いてありました。 気になってあねご先生の病院のHPを見てみると、 オープンスライスMRIとCTの両方を完備しているとの文言が。 これじゃどちらをやっていてもおかしくはない。はて…。


でも、もうひとつの手掛かりは、 その造影時に造影剤を使った記憶があることでした。 造影剤についての誓約書を書いた記憶もあるし、 注射で打たれると身体が温かくなったことをはっきり覚えています 。


調べてみると、 CTとMRIに用いる造影剤は種類が全く異なるもので、 CTでは主にヨード剤系を使い、 MRIだとガドリニウムというものを用いるようです。
ガドリニウムそのものは有害であるため特殊な状態にしてあり、 それでも腎臓には影響が出やすいことから、 腎障害を持っている人には使ってはならないのだとか。


だとすれば、 かなり初期から病名に目星をつけていたであろうあねご先生が、 腎障害が出やすいSLEの病状診断に、 造影剤を使ったMRIを使うはずがない、だとすれば、 ヨード剤系造影剤を使ってCTで造影したはず…。


ダメ押しに、主治医にも「 SLEの診断に造影剤を使ったMRI造影ってしますか?」 と聞いてみました。
答えは「 MRIは脳の診断に強いから、 よっぽどの神経障害とかが出てない限りSLEの診断には使わない なぁ」とのこと。


と言う訳で
私がずっとMRIだと思っていたのは、


実はCTだったらしい、


という結論に。なんとまぁ。


完全確定するには、 あねご先生のところに聞きに行けばいいんですけど、 今のところ行く理由が無いので「多分」 ということでゴメンナサイ。


以上、SLE罹患「7年目の真実(多分)」、でした。

 

ちなみに、 今回のMRIの結果は問題なしだったのでご心配なきよう…。


それでは、また。

「聖地の泉はすぐそばに」

 年明け、身近なものの再発見をしました。

 

 

 私はもともと都会のマンション育ちですが、近場の川に興味がありました。ただ土手をサイクリングするだけですが、何だか水辺が好きでした。無論、都会の川ですから、近づけばヘドロ臭いし、余り綺麗とは言えませんでしたが、時には市内を流れる大きな川にも足を運び、眺めていました。父親の釣りにもよくついて行きました。

 

 海も好きでした。父の田舎が海に近かったので、親戚の方が田舎に行く度に海に連れて行ってくれました。母によると、生まれた年?にも海へ行ったけど、初めから怖がらなかったとか。今でも砂浜に打ち付ける波は好きです。結婚後は熱海や沼津の砂浜に秋になるとたまに行っています。ただ、船着き場のように大きな底深い岸壁の海はどうも暗くて怖くて苦手です。何だか引き込まれて落ちてしまいそうで。

 

 ではプールはどうだったかというと、体育の授業で泳ぐのは特に得意ではありませんでしたが、潜水をしている時の、空気中とは違う水中の感覚とその静けさが好きで、何度も何度も潜って楽しんでいました。市民プールも塩素臭いのは好きになれなかったけど、流れるプールでひたすら浮き輪にまかせてプカプカ流されたり、潜ったりして夏の一時を良く楽しんでいました。

 

 

 ちょっと話は違いますが、神社に行くのも好きです。手水で手を清めて鈴をガラガラと鳴らし、お参りするのが何となく好きです。小さい頃は近所の神社、田舎で連れて行ってもらった新潟の弥彦神社、いとこのいる茨城の鹿島神宮、中学の鎌倉旅行の寺や神社、修学旅行で京都の平安神宮、思い出しても結構行ってますね。結婚してからは一人で三島大社にも行きました。また病院通いの途中のお不動さんに行き、二回目は息子の受験守りを頂いてきました。箱根神社と九頭竜さんは以前、仕事で近くまで行っていたものの、まだ一度も参拝したことがなく、この年末年始にぜひにと思ったもののまだ行けてません。

 

 結婚して縁有って伊豆に来てからは、水と神社が一緒というところも点在し、碧く神秘的な柿田川湧水と貴船神社、滝がご神体の瀧川神社(瀬織津姫)、近隣の不動神社(滝がある)、そして住んでいる地元の地区にも「不動の滝」があります。伊豆では滝があるところにはなぜか不動明王の石像があることが多いようで、滝イコールお不動さんを祭るという風土みたいです。地区の「不動の滝」にも小さな祠があり、何が書かれているかわからないのですが、恐らくその名からお不動さんが祭られているものと思います。

 

 

 さて、こんな水と神社が好きな私が、去年の年末近くにパワースポットして人気がある瀧川神社に行った時のことです。

 グーグルさんを頼りに行ってみると、以前、主人の知り合いに頼まれ夫婦で行ったところの道沿いでした。行った当時は気づかなかったのに、なあんだこんなところにあったのかというほどの近さでした。ごく普通の田舎の風景の中に、その神社はありました。

 動画などで見ていた通り、なるほど、川の岩壁から水が滾々と湧き、流れ落ちていました。その様子を見て、ふと、遥か箱根神社そばの芦ノ湖からの水脈が尾根づたいに流れてきているのかも、と想像しました。でももしそうならば、近隣の不動神社の滝もそうじゃないか?いやいや、そうしたら地域の「不動の滝」だって、水脈の分流じゃないのか?とハタと気付きました。

 

 改めて、「不動の滝」を見に行ってみました。かつては伊豆七滝と呼ばれていたというものの、今では高さ数十センチの所から流れ出るちっちゃなちっちゃな滝です。夏場は蛍が飛ぶので見に来る人もいますが、普段は草刈りをするとき以外は全く誰も来ることのない場所です。しかし改めてよく見ると、岩壁と滝つぼの底のあちこちから水が水中に湧き出ているではありませんか。まるでミニチュアな瀧川神社と柿田川湧水を足して二で割ったかのようです。それらが合わさって結構な水量となり、下へ流れ下っています。

 

 「やっと見つけた」と、私は思いました。「こんな近くにあったんだ」

 

 かつて入院中にあこがれ、退院してから念願かなって見に行った柿田川湧水よりも。

 高く岩壁から流れ下る名高き瀧川神社よりも。

 こんなにも身近に湧き出る泉が……まるで心の中にある泉のような地があったなんて。

 小さくて静かな聖地があったなんて。

 

 それに気付いて以来、時間を見つけては通っています。

 

 

 何をするためかって?

 

 もちろん、泉を眺めるためではあるんですけれども、実は、プラスαがあります。

 以前は隣の地区の史跡兼公衆トイレ傍でこっそり(笑)練習していた、笛の練習をするためです。近隣に家はないですし、どんなに大きい音が出ても、まず怒られる心配がない。まあ、たかが一日当たりの時間は最長で30分程度ではありますが。

 

 一礼をし、今日の水の湧き具合はどうかな?と観察した後、姿勢を正し、心に湧く泉と目の前の泉を重ねつつ、今日も息を吹き込みます。

 

 ただ……今の時期はいい場所なんだけど、夏はどうかなぁ。蛍が出るのはいいけど、ヤブ蚊も多ければ、又考えなくちゃなあ、練習場所。目下の悩みです。

 

 

 ではまた。

「せっけんを彫っています」

 最近、始めたことがあります。それは「せっけんを彫る」こと。

 

 いわゆるタイ発祥の「ソープカービング」ではなくて、イメージとしては「木版画」や「鎌倉彫」に近い物で、まだどんな姿が完成形になるかも見えていませんが、とにかく、ネットで見つけたフリーイラストを図案に、家にあった素材を試しに彫っています。

 

 それは何故に?という声が聞こえてきそうですが、私としては、紆余曲折を経てようやくやるべき素材を見つけた!!(涙)といった気分です。

 

 

 昔から木を彫ったり紙を切ったりするのは好きだった私。父が毎年彫っていた年賀状のゴム版に影響を受けたのでしょうか。小学校時の版画の自画像作品や中学校時のシルクスクリーン篆刻、そしてホオノキの白く美しい花を彫りこんだ木彫、チューリップのレリーフ額などが今も心に残っています。

 

 それから数十年。数年前の入院中に感じた想いを原点に、殺風景な病室にそっと飾れるような、そして見た人にも贈った人にもささやかな希望になるような、「窓から見た風景」をモチーフにしたはがき大の切り絵や木版画作品みたいのをやってみたいなぁ、と考え始めてから試行錯誤を繰り返し現在に至ります。

 

 

 実家から持って来ていた彫刻刀を手に、版材のホオノキの板を買ってきて実際に彫ってみると、木版画の材料はホオノキが良いというけど素人にはやりにくいし、第一ホオノキを切らなくちゃいけない。出来ればそれはしたくないなぁ。絵の具の環境への影響も気になるし、とボツ。

 

 シルクスクリーンや切り絵はどうかな?と百均で色紙を買いそろえて、デザインカッターを入手し始めてはみたものの、作りたいイメージと出来上がりがしっくりせず、ボツ。

 

 塩ビの透明シートを彫るというがあるのを知って、専用の彫刻刀も入手しほんの少し手を出してみたものの、図案が決まっていたり、かといって自分で図案をひくのは苦手だし、切りカスや作品自体の廃棄時を考えると気が進まずこれまたボツ。

 

 指で描くパステル画もきれいなんだけど自分の中でイマイチピンとこない……。余程の傑作でなくてはすぐ飽きてゴミになってしまうかも、と百均で道具だけそろえたけど作品とはならず終了。

 

 他にも、香りが与える人間や環境に与える効果からアロマを使った芳香剤、キャンドルアートやレジン、不要な布を使った布草履などなどなど自分がやってみたいことを検討。が、素材の調達や廃棄時の問題、社会的要求度などを考えると心の中でいずれもどこかしっくりしないものがあり、また仮に出来上がったとして、これで人様に欲しいと思ってもらえるものになるんだろうか?と自信もなく、初期的に色々な道具や材料を集めて少し試作してみるも、家の中にはそれらの道具や素材や作りかけだけが散り積もっていく……という状態に陥っていました。

 

 単なる飾り物を作りたくない。

 環境にも負荷になる物を作りたくない。

 人に喜んでもらえる物を作りたい。

 ささやかな希望を灯せるような……。

 そして現実的に、出来れば結果として現金化できるものを作り上げなくてはという焦りもありました。

 

 でもこれらをすべて叶えるなんて、単なるわがままなのか?と自問自答する日々。

 

 ところが今回、その転機はひょっとしたところから現れたのです。

 

 

 NHKで仕事中の昼食(主にお弁当)を拝見するという「サラメシ」という番組があって、普段からよく再放送を見ているんですが、正月明けにたまたま見た時、「ぎゅうにゅうせっけん、よいせっけん♪」というCMで有名な(年代がバレますね笑)「牛乳石鹼」の工場が出ていたんですね。そこで映し出されていたのは、大きなタンクで原料の油脂と苛性ソーダ等を混ぜ合わせ、熱を加えながら撹拌してゆく「鹸化(化学反応によって石鹸に変化させること)」の作業風景でした。

 現代ではとっくに完全自動化されていると思いきや、鹸化作業ではその日の気温や湿度によって、材料を加えていくタイミングや作業を切り替える工程の判断に石鹸職人さんの経験と勘が欠かせない、とのこと。番組ではベテランから若手へのその技術の継承がされていく様子と、その職人さんたちのお昼の様子が続いて紹介されていました。

 

 昔、環境問題に関心があったことから石鹸については多少なりとも知識があった私ですが、実際の様子を見るのは初めてで、その石鹸釜の中でフツフツと煮立つ姿がやがて固形の石鹸へと変わっていく実際の姿を興味津々見ていました。と同時に、私の中では連想ゲーム式に昔読んだ本などのいろんな知識を何の気なしに思い出していました。

 

 いい石鹸はネズミがかじる。←油脂が乳化した状態で栄養豊富。安全性が高い。

 被災者となった時、その物資の中に入っているであろう一個の石鹸。災害が起こると、行政から注文が来る。送り出す時、石鹸屋さんが込める「被災者へのささやかな祈り」。←希望・応援のこもった暖かい心の象徴。

 出来上がった牛乳石鹼←固形バターみたいだよなぁ。そういえば昔、テレビでチベットだかどこかで寒いところで、「バターで作る仏像細工」があるのを見たっけ……。

 

 石鹸……細工。と、繋がってそこでハタとひらめきました。あれ、確かそんなのがあったような??

 

 調べてみるとありました、タイの伝統工芸、「カービング」。野菜や果物をはじめとして、石鹸などを彫刻したりする技術。

 

 そうか、せっけんなら……。

 

 作った時も人の手に渡った時も、塩ビやキャンドルやレジンと違って処分に困らない。

 アロマ入りなら心も和む。

 誰もが日々お世話になるもの。誰に贈っても喜ばれる。退院祝いにもいい。

 飾っても、使ってもいい。自然へと帰っていく。

 

 彫る素材としてこれほど身近で、彫り易くて、誰にも迷惑かけないものってないんじゃない!?

 

 これだーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!

 

 ようやく見つけた!

 ようやく作るべきものが見つかった!

 私が目指すべきものが見つかった!

 喜びのあまり心の中て私は万歳三唱していました。

 

 

 ところが、早速ネットで情報収集、図書館で資料を借り……と始めたところ、またもや問題発生。作品類の写真で、自分の感性がピンとくるものがない。

 

 あれ?なぜ?

 

 答えは実際に試作してみて徐々にわかって来ました。

 

 通常、「ソープカービング」と言えばバラの花のような繊細な作品に代表される、タイの伝統方式を指すようで、それは専用のカービングナイフとタイの専用彫刻刀を使って製作します。彫るとは言いますが、実際には素材に切れ目を入れて余分な部分を切り取るといった作業のため、使う石鹸も柔らかくなめらかで、彫ると粉の出るような硬い物では出来ないのだそう。いわゆる日本人のなじみ深い版画用の彫刻刀では代用できないし、カービングナイフ一本あればほとんどの細工が出来るのでわざわざ日本の彫刻刀を使う理由もないとネットでは書かれていました。

 

 ところが、私が描くイメージは、鎌倉彫のような写実的でシンプルなものです。芸術品ではあるけど使うのがもったいないほどの華美ではない。日本の彫刻刀で、身近な草木をモチーフに、周囲に切れ込みを入れて浮かび上がらせ、それ以外は飾り彫りを一面に入れる感じ。意外にもそのような感覚でせっけんを彫っている方は少ないようなのです。

 

 また実際やってみるとどうやら使う石鹸選びにも差があるように感じました。柔らかめの石鹸ではカスが彫刻刀にまとわりついてしまい、彫りにくい。むしろ彫ると粉々になるくらい(限度はありますが)の方がカスを刷毛で取り除くことができ、しっかりと彫りやすいみたいなのです。

 

 でも、最適な素材は見つかったんだから。

 私は私のやり方でいい。

 私の作品として開拓していこう。

 

 今はそう思いながら、時間を見つけては彫っています。まだ開拓中ではありますが、とりあえずこれがいいかも?という石鹸も見つかりました。目標は5月の友人のイベントでの販売です。

 

 どんな作品にたどり着くか……はその時までのお楽しみに。

 

 ではまた。

「サグとナユグに春が来る」

 皆さんこんにちは。だいぶ間が空いてしまいましたが、お元気でしょうか?

 

 始めに、「この冬の大麦栽培の様子はどうですか?」と疑問をお持ちの皆さん。

 ゴメンナサイ。今回はあきらめました!

 どうせ育てるんだったら、昔ながらに旧暦の「土用に土を犯してはいけない」という言い伝えがあるのを守った方がいいかなと、大麦の種まきのタイミングを計っていたら、なんと早目の霜が降りてしまい、また家の中も何となくバタバタしていたため(後述)この冬の大麦栽培は諦めました。

 

 今回はその少し前の9月前後から年明けまでの近況をつらつらと書いていきたいと思います。

 

 

 以前ブログにも書いたとおり(「BGMの効用」を参照)、スマホで音楽を聞き始めたことからユーチューブにハマった私。以来、お気に入りの曲やBGMなどを楽しんでいました。

 

 夏の終わり頃からだったでしょうか。日常のルーティーンが少し変わり、以前楽しんでいた地元エフエム局の「朝「星占い」がなかなか聞けなくなりました。それをちょっと残念に思っていたある日、ふと思いついて「ならそれも聞けばいいんだ!」と気楽な気分で動画検索したところ、ホロスコープのみならず芋づる式に、昨今のスピリチュアル系や引き寄せ系や、古代文明系や宇宙存在系の最新情報も怒涛の如く「耳」に流れ込んできました。

 

 スマホに流れ込んで来る精神世界系情報(スピ)のことについては、以前のブログ「20年前の未来」でも少し触れましたが、その時よりもさらに時代が変化し、最新最速の情報はどうやら「視覚(ブログ等の静止画)」ではなく「聴覚(動画)」での発信が多くなっているように私は感じています。

 

 折しもここ数年、

 「風の時代」だの、

 「レムリアの記憶」だの、

 「スターシード」だの、

 「引き寄せの法則」だの、

 「目覚めの扉が閉じる」だの……などなど。

 新しいトピックをチラチラ耳にするようになっていたので、私にとってスピ情報の空白の20年間を埋めるべく、最新情報の疑問点解消のために、これ幸いと聞き始めたのが運のツキというか(必然?)、爆勉強することと相成りました。

 

 ちなみに、私にとってスピすなわち「見えない世界」の存在についてのスタンスは、

 《見えない世界を「無い」と信じるより、「ある」と信じたほうが楽しいと思うから》

 という感じです。あるという証明もないなら、無いという証明もないですしね。

 

 要するに、知りたがり屋なだけなんです(笑)。

 

 私自身は霊感もチャネリング能力も一切ありません(たぶん、今の自分には必要がないのでしょう)ので、物事の判断は常に「(1+1+1+1)÷4」か、もしくは「共通項で解く」ということをモットーにしています。

 

 それは、物事を常に球体のようにとらえて、

 「これとこれって、違うように見えて実は同じこと言ってんじゃねーの?(Byチコちゃん風)」か、

 「これとこれって分野は違うけど、同じ解き方が出来るじゃん?(同上)」

 といった感じです。

 つまり、一つの物事について一人の提唱した考え方に捕らわれたり固着することなく複数の人の意見の中で共通項を見つけて、どうやらこれは真実らしいということをピックアップする方法です。これで情報の盲信を防ぐことが出来ると思います。

 

 

 さて、スピの爆勉強の結果わかった「今という時代」のこと。

 

 ホロスコープ上から言っても、

 宇宙存在からの視座から言っても、

 神様からの視座から言っても。

 共通しているのは、

《地球上での、今という時代は、とてもたぐいまれで貴重な切り替え時》らしい、

ということでした。

 まあ、信じない人にとっては単なる西暦2022年という一年でしかありませんがね。

 

 

 ところが、その影響を受けた?のかわかりませんが、ちょうど切り替え時というべき状態が私生活でも起こりまして……。

 

 そのきっかけはジャム加工用の原料を保管している我が家の冷凍ストッカーが、一台壊れたこと。

 我が家では本業の農業の一環として、細々とジャムの製造を行っていますが、ストッカーが壊れたのを機に、「ジャム製造のための法律改正が2年後にあるらしいけどそれ以降はどうするか?」という話になりました。話し合った結果、「加工所の建設が必須になるのなら、それを機にジャム製造は終了しよう」ということになり、密かに、法律改正を機に麦芽水あめを含めた加工所建設をもくろんでいた私は大ショック。

 

 おまけに、やめるのを機に「今まで飼えずにいた保護猫を飼うぞ!」と主人が爆弾発言。猫は嫌いではないけど、飼ったら加工所なんてまた夢の夢になると思った私は「聞いてなーい!!」と大憤慨し一時冷戦状態に。

 

 ただ、ジャムそのものの社会的要求度の低下や、以前から「砂糖の過剰摂取につながる物を作っているのではないか?」という私自身の罪悪感もあったので、ジャム終了については了承したのでした。ただ同時に、大麦による麦芽製造と水あめの商品化の夢もいったん棚上げの状態になり、「まあ、時を待とうか」とため息をつきつつ、大麦の試験栽培も、その先の商品化も先の見えないという、私にとってかなり精神的にキツイ年末年始を過ごすこととなりました。

 

 そんなこともありまして、一気に意気消沈状態に陥った私。

 スピの前向きな「こんなことするといいよ!」「大丈夫!きっといいことあるよ!」という言葉に励まされ、ますます連日聞き入っておりました。ある意味、すがるように聞いていた感もあります。家事をしいしい、どんどん聞いたスピから学んだ「これから何より大切なこと」。それは「自分を愛する生き方」でした。

 

 まず自分を労わって、自分を許し、

 自分を満たして、自分の望みを叶え、

 自分が自分の創造主だと自覚し、自分軸で楽しみ、

 自分をより深く発見し続けること。

 

 なるほど、そうなんだ、そうだよね。

 夢破れる度、学ぶだけ学んで、それでも前に進んで行く。行けると信じて、日常の中に自分のホッとする瞬間を楽しみつつ、「本当の自分がやりたい事っていったい何?」とひたすら自分に問い続けました。

 

 結果、正月明けにやっと自分なりの答えのキッカケを掴んだのですが……それはまた別のブログで。

 

 

 さて、実際の暦の上で節分、そして立春が過ぎましたね。

 

 「貴重な切り替え時」ということで少々お祭り騒ぎ気味だったスピ世界の熱波は、昨年の冬至をピークとして立春を区切りに過ぎ去ったようです。

 

 私自身も、年末年始からつい最近まで意気消沈しやる気が出ず、寝てばかりいた時期を通り過ぎ、ようやく落ち着いてきました。動画の聞く内容もスピ一辺倒でなく、以前のように静かなBGMも増え、それを耳にしながらゆっくりと、今新たなことに取り組み始めています。

 おかげでブログもこうして書く気力が戻って来ました……書く内容がまとまらず、書き上げるのに一週間以上かかってますが(苦笑)、それはいつものことです。誰が読むかもわかりませんが、コツコツ、ブログの更新はしていきたいと思います。

 

 

 あまり面白くもないことばかり書き連ねてしまいましたが、最後にこの回の題名について説明を。

 

 「見える世界」と「見えない世界」の位置づけを理解するのにぴったりの話として上橋菜穂子著「精霊の守り人」があります。そこでの世界観の設定がまさしくごく自然に、私の中での両者の関係を言い当てていると思います。

 

 「じゃあ、話そう。

 むかし、むかし、この地にはヤクー(注・物語中の先住民の名)だけが住んでいた。ヤクーたちは、目にみえるふつうの世〈サグ〉のほかに、この世には、ふだんは目にみえない、もうひとつの別の世〈ナユグ〉があるとしっていたんだ。まちがえないでほしいのは、きみたち〈新ヨゴ皇国〉のヨゴ人がしんじている『あの世』ではないってことだ。死者の魂がいく天国や地獄じゃない。サグとナユグは、どうじに、おなじところにあるんだよ。いま、ここに、ね。

 いちばんだいじなのは、サグとナユグが、たがいにささえあっているってことだ。(後略)」

 

 「現実世界」と、そこに同時に重なるように存在している「見えない世界」、すなわち神様や宇宙存在やホロスコープ上の事象が、

 《たがいにささえあっている》

という感性。実感はないけど、もしそうだったらすごいと思うし、面白いと思うのです。

 

 そして私が惹かれるのは、それが「人間と自然との関係」とどこか似ているからかもしれません。

 

 ネタバレではありますが、先の「精霊の守り人」ではシリーズ最後巻で「ナユグに春が来るとき、サグでも雪解けがおき洪水が起こる」という現象が起こります。主人公たちはその大惨事を未然に防ぎ、たくさんの人々を救うのです。

 

 この世界(サグ)と見えない世界(ナユグ)に、そして私に、今年、どんな春が来るのでしょうか?むろん洪水は困るけど、楽しいことを想像しながら、時を過ごすのもまたいいものですね。

 

 では、また。

 

 

〈PS〉イヤホン変えたら天国だった。

 

 今回、聞く動画ライフに拍車をかけた立役者が「ワイヤレスイヤホン」。息子が使っているのを見て、11月、百均(だけど千円)で購入し試しに使ってみたところ……

 

 まあ快適なこと、この上なし!!!

 

 スマホ本体は電波が届きやすいところに置きっぱなしでいいから感度は良くなったし、イヤホンのコードを引っ掛けて壊す(二つもダメにした経験者です)リスクもなくなったし、広告さえ気にしなければ次々と聞きたい物を再生してくれるのでますます自由度が高くなり、常に右耳(左は形が合わないのかすぐ抜けてしまうのと安全性のため)に手放せなくなりました。これは2021年の私の中での良い事ニュースのトップ10に入るな~。

 

 私みたいなイヤホン壊し屋の皆さん、ぜひお試しあれ。

「恐怖の大王は降りてこない―ワクチン接種に思うこと」その3

 一年ほど前にアップされた日本赤十字の動画を文章化したものです。

 あなたの心に届くことを祈って紹介させていただきますね。

 

 

 『ウイルスの次にやってくるもの』

 

ウイルスから身を守るためには?

 

 きちんと手を洗うだけで、感染する確率はぐんと下がる。

 

 でも、心の中にひそんでいて、流れていかないものがある。

 

 そいつは、お腹を空かせてるみたいで、暗いニュースや間違った情報を、たくさん食べて、どんどん育って、そして、ささやく。

 

 先の見えない状況を、「もうみんな助からない」と。

 

 誰にもまだ分からないことを、「誰かが隠しているのだ」と。

 

 そいつは、人から人へと広まっていく。

 

 「あの人が病気になったのは、誰のせい?」

 

 「ウイルスが広まったのは、あいつのせいだ!」

 

 「世界がこうなったのは、あいつのせいだ!」

 

 そいつは、まわりに攻撃をはじめる。

 

 人と人が傷つけあい、分断が始まる。

 

 そいつは脅かす。

 

 「もしも感染していたらどうする?」

 

 「あんな風に言われたらどうする?」

 

 みんな、熱があっても、隠すようになる。

 

 具合が悪くても、元気なふりをするようになる。

 

 もう誰が感染しているか分からない。

 

 ウイルスがどんどん広がっていく。

 

 鏡を見ると、そこに、もう、あなたは、いない。

 

 そいつの名前は、恐怖

 

 ウイルスの次にやってくるもの。

 

 もしかしたら、ウイルスよりも恐ろしいもの。

 

    ◇

 

 ここまで表示された後、今度は「わたしたちが恐怖に飲み込まれる前にできること」として、具体的な対処法が描かれています。

 

 【恐怖に餌を与えない】 ときにはパソコンやスマホを消して、暗いニュースばかりを見すぎるのはやめよう。不確かな情報を、うのみにしないで、立ち止まって考えよう。

 

 【恐怖のささやきに耳を貸さない】 恐怖は、話を大げさにして、おびえさせる。誰にもまだ分からないことは、誰にもまだ分からないことでしかない。そのままを受け止めよう。

 

 【恐怖から距離を取る】 非難や差別の根っこに、自分の過剰な防衛本能があることに気づこう。冷静に、客観的に、恐怖を知り、見つめれば、恐怖はうすれていくはずだ。

 

 【恐怖が嫌がることをする】 恐怖が苦手なものは、笑顔と日常だ。家族や友人と電話して、笑おう。いつものように、きちんと食べて、眠ろう。恐怖は逃げていくだろう。

 

 そして最後は、こんな言葉で結ばれています。

 

 「恐怖は、誰の心の中にもいる。だから励ましあおう。応援しあおう。人は、団結すれば、恐怖よりも強く、賢い。恐怖に振り回されずに、正しく知り、正しく恐れて、今日、わたしたちにできることを、それぞれの場所で」

(以上、朝日新聞デジタル 医療サイトアピタルより転載)

 

 

 皆さんは「恐怖」に飲み込まれず、「陰謀論」に限りある大切な人生の時間を取られることのないように。

 

 

 さて、散々意見をぶちまけた、私はどうするかと言うと?

 

 私は逃げません。ワクチンを接種します。

 

 それは何故か?

 

 「人間をナメるなよ、ガーゴイル! 人間はきさまの考えているほど愚かではない!」

 (By小説『ふしぎの海のナディア(あのエヴァシリーズの庵野監督の作品です)』下巻ネモ船長のセリフより)

 

 そう。

 なぜなら、私は人の心と身体を信じているから。「人間」すなわち「人間の身体の仕組み」はもっと賢いはずだと。

 

 結果、死ぬかもしれません。でもそれは私個人に起こることであり、たまたま私の遺伝子とワクチンとの相性が悪かったとしか言えません。全てが必然。もとより、世間から見ればSLEを薬によって抑え生きながらえている身。もちろん、叶えたい夢はあるけど死んだら死んだまでということで覚悟はしてます。

 

 それが真のカナリアの使命ではないでしょうか。

 

 この想いがたくさんの人の心に届きますように。

 

 まあ~そのワクチンの効果さえも変異株の為にいつまでもつかわかりませんが、取りあえずね。もしかしたら百年のちも人類はコロナとのいたちごっこかもしれないけど・・・。

 

 皆さん、恐怖の大王に振り回されないように、まず三年後を楽しみに待ちましょう。生きて笑えたらいいですね。

 

 ♪呼んでいる 胸のどこか奥で

 いつも何度でも 夢を描こう

 悲しみの数を 言い尽くすより

 同じくちびるで そっと歌おう♪

(いつも何度でも)

 

 そして願わくば、一人でも多くの方が、「闇を暴露し恐怖を蒔く人」ではなく、「光を探し希望を蒔く人」になることを祈ります。

 

 それでは!

「恐怖の大王は降りてこない―ワクチン接種に思うこと」その2

 さて、色々調べてみて、ワクチン有害情報を信じている人たちの傾向が見えてきました。

 

現代社会制度を快く思っていない「世の中みんなダメダメ!ウイルス感染症」の方。

・現代医療の情報を信用しない「超自然派自分だけ純粋でいたい清潔症」の方。

・新世界の到来を切望し「終末思想信心自分だけ助かりたい派」の方。

・スピ系宇宙人信仰、現実逃避型「自分だけ特別な魂なので楽天家」の方。

 

 それぞれがかぶる方もいますが、共通しているのが、「世の中は闇の組織の陰謀によって動かされていて、自分はそれらの闇を暴き、真実を伝えたいだけなんだ。」という強い自我意識で行動していること。つまり正義感高い「陰謀論信者」であることです。

 

 世の中、様々な陰謀論が渦巻いています。「東日本大震災は陰謀によってひき起こされた人工地震だった」なんてのもあります。

 でも、仮にそれが真実であったとしても、亡くなった人は帰って来ませんし、陰謀団体を探し出して憎しみをぶつけたとして、果たして、それで幸せが来るのでしょうか?

 答えはノーです。虚しさと怒りがしこりとなって残るだけです。

 

 余談ですが私の体験談で・・・高校の時のある社会科教師が「陰謀論信者」でした。「これは良かったと思うでしょ、でもこの裏には・・・」と歴史にしろ、公民にしろ散々授業してまして、最初は興味津々で聞いていた私もさすがに毎回こんな話ばかりなのであきれてしまい、「じゃあ先生、だったら先生が政治家になって世の中変えたらどうですか??」と職員室で噛みついた記憶があります。本来、教師は生徒に希望を与えるべき存在であるはずでは?自身が「陰謀」に乗っ取られ、生徒に「陰謀」を植え付けてはいけませんよね?

 

 そもそも、心の中に他者(特定の金持ちや権力など)に対するつまらない妬みや恨み、不信感があるから、陰謀論に簡単にハマるのだと思うのです(しかし、世の中のことをうがった目で見ている割には、ネット上の学者や権威の肩書に弱く、仮にそれが偽物でもすぐ信じてしまうとは不思議なのですが)。自分の人生をしっかり生きている人に、それらにハマってるヒマな人はいません。

 皆さんはどうか「陰謀論」に限りある大切な人生の時間を取られないように。

 

 

 逆に、「陰謀論」に負けないという意味で、スピ系の方が「ポジティブな心でいればマスクもワクチンもいらない。コロナにならないよ」と言う人がいます。それでは「我々には神様が付いてる」と言って、お祭り騒ぎした結果感染爆発したインドの例と変わりありません。

 

 間違っても、何も知ろうとせずに明るく生きることだけがポジティブなのではありません。

 

 《すべてを知ってアホになれ》という教えがあります。

 

 陰謀の存在を知るのは一向に構いません。どんなことでも知っておくことは大事です。それらの有象無象な事柄を無視せず知った上で「へーそうなの。で、それが何?」というように聞き流す強い意志の力と、何があろうとドーンと構えている覚悟を持ちなさいという意味です。

 それが本当のポジティブに今を「生ききる」生き方だと私は思います。

 

 

 さて。

 これらの情報を受けてワクチン接種を拒否し、情報を拡散している上記のような方へ。

 私から一言申し上げます。

 

 それらのことが本当にそうなると信じてますか?

 ただ単に「○○と言う人が力説しているから」という信仰心からですか?

 闇の陰謀を暴露し、それに騙されるなと言う正義感からですか?

 

 信じてるから、「打つのは危険だ。打たないで!」と叫ぶのですよね??

 

 人が信じた通りに世の中は動いていきます。明るい未来を信じ希望を持てばそのようになっていくし、暗い未来を信じ恐怖におののけば暗くなっていく。

 

 つまり、「陰謀があるんだ、世の中陰謀だらけなんだぞ」と信じた瞬間、すなわち陰謀の存在を認めた時、逆にそのことによって陰謀は存在感を与えられ、力付けられてしまいます。

 

 「陰謀を暴露するつもりが、手助けにつながってしまう、というパラドックスが存在する」こと。

 それに、皆さんがまず気付いて欲しい。

 

 もし、その情報が正しく、信じた通り現実になったとしましょうか。

 ワクチンを打った何億もの人たちが全て死に、人類のほとんどが不妊になったとします。

 

 あなたはその時、「あぁ、良かった。私は正しかった。自分は打たなかったから死なないで済んだ。助かった。」と喜びたいですか?

 打った人は愚かだと。陰謀を信じない人は滅ぶべきだと。そして、打たなかった人達だけでユートピアを作る?それって、選民思想ですよね。それこそ陰謀に利用されていません?

 

 自分と世の中を正邪として分離し、こころの片隅で「自分は正しい。こんな間違った人類世界壊れてしまえ」と今、憎んでいるのではないですか?口では「人類を救うためにみんな打つな!」とカナリアのように警告者として正義感一杯に叫んでいるつもりなのでしょうが。

 

 率直に言います。かなりの暴言ですが。

 

 

 本当に救いたいのは「自分だけ」ではないでしょうか?

 

 警告者になりたいなら、死を恐れずにまず真っ先に自分に打つべきではないですか?

 

 本当は、心の中を「死にたくない!」という強い「恐怖」に支配されているだけではないですか?違いますか?

 

 私の相棒がこんなことを言っていました。

 「今の社会って、幕末みたいだよね。ワクチン接種の拒否反応って《牛を食べると角が生える》《写真を撮ると魂をとられる》なんて言っていたのと同じレベルじゃないか。みんな初めてだったりわからないものへの『恐怖』があるからなんだよな~。」

 

 まさしくその通り!(時々ぽろっと本質を突いたことを言うんだよね)

 そう、「恐怖の大王」(懐かしい響きだね)は空から降って来ません。私たちの心の中にいる。

 

 皆さんにぜひ読んでいただきたいものがあります。

 一年ほど前にアップされた日本赤十字の動画を文章化したものです。

 

 あなたの心に届くことを祈って紹介させていただきますね。

 

 その3に続きます。

「恐怖の大王は降りてこない―ワクチン接種に思うこと」その1

 今、ウイルスではなく、「ワクチン接種の賛否」という戦争が始まっています。公的にではなく水面下、主にSNS上での攻防ですが、じわじわと確実に世界を二分する戦争です。

 

 笑い事ではなく、私の知り合いの中でも周囲に高い城壁を作ってしまっている人が何人もいます。悲しいことに、その鉄壁を本人は意識できていません。私は突き放し拒絶するのではなく、冷静に見守っていく決断をしてはいますが、一種の洗脳状態に陥ってしまっているその方たちの文章や動画を見聞きする度、心の声が届くよう祈るばかりしかない自分の無力さにため息が出ます。

 

 もちろん、ワクチンの接種自体は本人がするかしないかを選ぶ権利があり、したくない人の権利も保証され、差別を受けないようにしなくてはいけません。その点日本は強制ではなく(忖度や集団的圧力は除いて)、個人の自由が認められ保証された素晴らしい社会だと思います。

 

 ただ問題に思っているのが、接種の希望しない人たちの正当性として広まっている情報の内容とその広がり方です。

 

 「コロナウイルスは存在しない。ただの風邪。三日も寝てれば治る」

 「ワクチンを打つと、三年で死亡する」

 「ワクチンのスパイクタンパクはエクソソームとして周囲に拡散し、接種した人が妊婦に接触するだけでうつり胎盤に悪影響」

 「ワクチン接種すると不妊になる」

 

 などなど・・・。

 

 その根拠や仕組みを解説しているところもありますが、体の成り立ちにうとい人だと、「偉い人が言ってることだから真実だろう」と容易に信じてしまうであろうと思われます。

しかしそれらのほとんどがだいたい同じ出所からリンクしている「伝言ゲーム」状態。誰も責任を取らないで済むように動画の使いまわしで、「じゃあ、それを証明する動物実験を自分でやってみたんかーい!(動物さんごめんなさい。感謝)」とツッコミを入れたくなります。

 

 以下、私の個人的な見解と解釈。

 

 

 「コロナウイルスは存在しない。ただの風邪。三日も寝てれば治る」

→そりゃーもともとコロナウイルス自体は風邪の代表株ですが、新型はそうでないから問題なんでしょうが。大腸菌と病原性大腸菌O-157騒動をお忘れですか?

 

 この件で恥ずかしいというか、悲しいというか・・・厚生省に実際に「コロナウイルスって本当に存在するんですか?」と電話した人が、知人に、います。でも私は厚生省に電話するのではなくて、国立感染症研究所にでも「その足で行って」「その目で電子顕微鏡を覗いて」確かめて欲しかったなあ、と思います。厚生省に電話したって、下請け業者が怪訝そうに返答するに決まっているじゃないですか。行くべき先が間違っていると思うのは私だけ?

 

 「ワクチンを打つと、三年で死亡する」

→プロセス拝見しました。が、人間の身体の免疫システムがそう簡単にワクチンタンパクに乗っ取られるほど、やわで単純な仕組みなら、そもそもSLEだってとっくに解明されてますよ。骨髄で生まれ、胸腺で淘汰され、腸で鍛えられ・・・と複雑な過程で成り立っている免疫系統が、ワクチン一本で「右にならえ」するとは到底思いません。ましてや、補体と呼ばれるサブ免疫系統まである複雑怪奇な人体の仕組みのこと。ありえないと考えるのが現代医学の常識。しかし、現代医学を拒否し、自然医学を信じてる人は逆に人間の免疫システムを信用せずにこのプロセスの方を信じちゃうのよね。自然医学って、人間の免疫システムを信じてるんじゃなかったの??このデマに引っかかっちゃう不思議。

 

 「ワクチン接種すると不妊になる」「ワクチンのスパイクタンパクはエクソソームとして周囲に拡散し、接種した人が妊婦に接触するだけうつり胎盤に悪影響」

→タッチするだけでうつる?これはかなりブラックユーモアな話。これが事実なら人間は出産という一大イベントとおさらばしてこれからの人類は全て育成チューブ生まれになりますね。快楽のためのセックス産業は花盛りとなること必至ですが(苦笑)。

 

 まあ、冗談はさておき。実は、この話が広がるとかなり深刻な事態が発生します。

 

 それは、打たない人が打った人に対して、「保身」と言う名の差別を生み出していることで、「接種した人(スパイク・ヒューマンと呼ぶそうです)が孫の近づいたら蕁麻疹が出た」「調子が悪くなった」「死んだ人がいる」とのデマが広がり、「スパイク・ヒューマンとの距離をなるべくとろう!」「スパイク・ヒューマンと接しても影響を受けないようにするには免疫力を上げよ」とかいう動きが出てきています(まるで「ゾンビウイルス感染者」並みの扱い!ホラー映画の見過ぎだよ、まったく)。

 

 これらの動きが進むとすると・・・、

・「お付き合いしてた彼が打ったの。だから別れちゃった。」

・「子供を学校に行かせるのが怖くて打たない人たちだけのフリースクールの通わせることにした。」

・「会社を辞めた。」

・「結婚を前提にお付き合いしてたけど、相手の両親が打ったので近づくのが怖くなって破談にした(もっともこのくらいで別れるなら本当には愛していないのでしょう)。」

・「相方が打ったので離婚した。」エトセトラエトセトラ・・・。

 

 こんな未来が待っている???冗談じゃない!!!

 

 私がびっくりこいたのが、昔からのかなり有名な占星術的人生相談の先生までもが、接種した人に対する毒消しのお祓いの音だと称した動画をアップしていたこと。こんな方までもがワクチン有害説を本気で信じてるんだとショックでしたが・・・。

 

 長くなったのでその2に続きます。